スピーチ原稿集(2015年)

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「自由と平和のための京大有志の会」メンバーがおこなったスピーチ原稿を掲載しています。
スピーチのためのメモに基づいた内容ですので、実際のスピーチとは異なるところもあります。


☝2015/9/16 【左京市民は強行採決を絶対に許さない!】9・16 戦争法反対!左京ウォーク
「非力な私に学びや出会いが与える力」(「自由と平和のための京大有志の会」学生メンバー)

こんばんは。「自由と平和のための京大有志の会」で活動している学生の広瀬と申します。
私はこのような場に出てきてスピーチをするような大それた考えの持ち主でもありませんが、民主主義の社会のはずが市民の意見が反映されず、権力が暴走しており、その最大で最後の歯止めである憲法も無視されようとしている社会情勢を見ていて、こんなチンケで普通の学生の私こそ意見を言い、皆さんと考えを共有して一緒に難局に立ち向かわなければと思い、この場にやって来ました。慣れない場での拙い話ではありますが、よろしくお願い致します。

今日は、自分の経験や取り巻く環境に基づいて、話をしたいと思います。一つは、学びや経験は他者を愛して平和に気づくための思想や気持ちを培い、それを強く堅持する助けになるということ、そして二つ目に、それは今、「女性」こそが持っている力であるということです。
安保法制が緊迫した局面を迎えている状況ではありますが、あえて少し距離をおいた冷静な立ち位置から、今国会の安保法制の議論にとどまらない、今後に繋がるお話をさせて頂ければと思います。

最近テレビや新聞では、「中国の脅威」が大きく取り上げられています。確かに、国際情勢を把握する上で、必要なニュースもありました。一方で、コメンテーターは時折、こんなふうに言います。「中国はほんと得体のしれない国ですねぇ。」「ちょっと頭がおかしいですから。」私のとなりでテレビを見ている人が言います。「あぁ、中国人はみんなキチガイらしいからなぁ。」

私はどちらかと言えば、経済的に余裕のない家庭に生まれ育ちました。難関の京都大学には、有名校に通ったり進学塾と掛け持ちしながら入学してきた学生もとても多く、私のような貧乏人を学内で探すのはちょっと難しいくらいかもしれません。そんな環境でも、私が何のお金にもならない学生としてここまで学び続けて来られたのは、ひとえに両親の教育熱心さ、希望を未来の世代に託す姿勢からです。私の両親は人権思想を大切にする理想主義者です。納得がいかない現状で、自分が他人を蹴落として理を得ようとするのではなく、人としてあるべき方法で克服しないといけない。
時に人間は、領土や資源を争って命まで無惨に殺しあうけれど、人には経済利益や効率より大切なものがある。そういう未来が私にはある。何が有ってもソレを諦めないで欲しい。だから、いくら苦労をしても娘には学びたいだけ学んで欲しい。その願いを一心に受けて私は育ちました。
両親のそのような愛情は、「少年よ大志を抱け」や「可愛い子には旅をさせよ」と言った表現がぴったりの形で実践され、私の意思を尊重してくれました。私は国際関係を学ぶために沖縄に進学し、その後、奨学金などを駆使して韓国、フランス、ベトナムと留学し、かけがえのない学習の機会を得ました。

そういった学びがあったからこそ、今強い意思を持ってここに立つ私が居ます。先ほど紹介した中国に関する報道やそれに対する語り口について、これらが度を超えた不毛な悪口でしか無いと、自信を持っていうことが出来ます。中国人を含むたくさんの外国人の友人と共に生活し、同窓で一緒に学んで意見交換してきたからこそ持てる自信です。

自分が直接知り得ない情報を語るときに、多くの人はメディアからの情報を元にしていると思いますが、それらの情報は、「見たい映像」や「流したい画像」が取捨選択された間接的で限られた印象に過ぎません。「〇〇人=〇〇」と決めつけてしまう人はまず、その「情報・印象=ある民族・ある社会」「ある政府=その行政内に住む人々」という理解は間違いだと認識するべきです。私達が、「I am not ABE」を掲げるのと同じように。

時に政府・権力は、権力内にいる一部の人間の利益のために人の命を駒のように使い捨てることは、この夏、もしくは長い歴史をみれば明白です。そして、その権力の傲慢に対して人々が民主主義のもとに声を上げ、一つ一つの命を大切にする社会が少しずつ達成されてきたことも歴史の真実です。一応は民主主義体制で声を上げることが可能なのに黙っている人も多い日本の私達より、民主主義を切実に欲してもその声を抹殺されるけれど、なお機会を狙っている、彼らのほうが知っているかもしれません。日本の今の社会は、そんな彼らと政府を「キチガイ」と一緒くたにしてよび、「キチガイが向かってくる。殺せ」と言っているのです。

私たちは人間です。彼らと顔を突き合わせ率直に話をし、お互いの文化、主張やその基礎である生存権を認め合った人間味あるあたたかい経験は、「殺しあいたくない。そんな選択肢は選ばない」という意識を作り頑固に守りぬくのに非常に大きな役割を果たすと私は考えています。

ここから、女性に関する話をさせて下さい。
私は、以上の様な人と人との交流をすすめられるのは女性であると強く感じています。
近現代以降の世界や日本には、いわゆる女性は家で家事や子育てに従事(再生産)するのが美徳、いわゆる男は外で働いて稼げてこそ、という考え方や行動様式(家父長制)が誕生し、大きな影響力を持ってきました。「男は外」。社会は男のものと言わんばかりのこともあります。故に、野外で意見を述べる女性に、「外で働かず、社会に何の責任も果たしていないくせに」という人もまだまだ居ます。この夏、様々な場所で声をかげた人々の中には「女性」もおられました。その方たちに「稼ぎもしないくせに好き勝手言うな」という声を浴びせる方が居たようです。しかし、その主張は正しいでしょうか?

「男性」は世界のたった半分しか占めていません。「男性」は長い間、経済利益を最優先してきました。結果、人間の命に関わる問題や環境はそっちのけ。仕事効率の向上のためにその場を仕切れるリーダーシップ評価する、そんな考え方に偏っていなかったでしょうか?
安倍政権の「女性活用」政策のもと、私たちは、そのようないわゆる男のような姿勢で働け、そのような男たちとの競争を勝ち抜けるほど「有能」になれ、さもなくば用なし、と言われています。

しかし、戦争を肯定するような方向に社会が転びそうな今、必要なのは、「男性」こそが「女性」から学ぶことです。経済至上主義や上下関係に捕らわれ、その中で他者を欺き、蹴落とし、弱肉強食の社会を勝ち抜こうとしているいわゆる男性ではなく、それを人道主義やコミュニケーションの力で軌道修正する「女性」の力です。決して生物的な女性だけを意味しているのではありません。この社会を本当の意味で豊かにするために、今まで男性的な主流に追いやられながらも在野で命や個と向き合い、模索し続けてきた存在こそが女性と言ってもいいと思います。今まさに、そのような在知に学び、実践することがとても重要だと考えます。

力や社会的立場が比較的弱いからこそ、他者の痛みがわかり、何を改善するべきか、何を大切にするべきかが分かることもあると思います。相手を鋭く尖った刃で一突きにしてだまらせることは簡単ですが、突かれた方はまた立ち向かってくる。その繰り返しだけでしょう。私達の社会が弱肉強食を指向していないかぎり、そんな方法は必要ありません。私たちに必要なのは、「太陽と北風」で無理にコートを剥がし取ろうとする北風ではなく、温かさで人の心を動かす太陽に成ることです。

この様な発想を私にくれたのは、留学先のホストファミリーです。初めは言葉も通じず知り合いもいない留学先で私のココロの支えとなったのは、わたしを実の娘のようにかわいがってくれたホストファミリー、とりわけお母さんたちでした。彼女らは、子どもを育てるという経験を通して、言葉もわからない謎の生物との愛に満ちた和解を経験済みだったのです。私レベルのエイリアンを相手することなんて、彼女らからすれば朝飯前でした。彼女らは私の第二、第三の親となり、私を守ってくれました。一方で、私との会話が終始ぎこちなかったお父さんたちが居ました。彼らには、もっと育児をし、コミュニケーションを学んで欲しいと思います。

私はこの先、今日の話に出てきた全ての人達、そして海外でであった全ての人達に刃を向けることは決して無いでしょう。彼らは私の友人であり、家族です。
今日話しを聞いてくださった学生の皆さん、是非より広い世界を見て、よりたくさんの人から愛されて下さい。お子さんを持つ皆さん、次世代をどんどん旅に出して下さい。次世代を他者や多文化との出会いの場づくりに尽力し、また、ご自身もそれを楽しんで下さい。勇気ある私の両親のように。

最後に、敬愛する京大の山室信一先生の著書からの引用でおわります。

歴史を顧みるかぎり、強靭な意志と強い権力をもった人によって非戦の時代がもたらされるとは私には想像できません。そうした強さは必ずや、その威力を誇示することにしか向かわないと思えるからです。少なくとも、非戦思想が他者を力によって屈服させようとすることは背理ですし、それゆえに非戦思想は脆く非力であるともいえます。しかし、それゆえにこそ、「つながり、持続する」ことの必要性を非戦思想の歴史は教えてくれるのではないでしょうか。(『憲法9条の思想水脈』あとがきより)


☝2015/9/16「憲法違反の戦争法案!強行採決するな!9.16 怒りのデモ」@京都市役所前(小山哲)

みなさん、こんばんは。
わたしは、喘息もちで、張りのある大きな声でお話しすることができません。
こういう大事なときにスピーチをするにはまったく不向きな人間ですが、こみあげる怒りに震えているという点では、たぶん、みなさんと同じだと思います。

3つのことを、手短じかにお話します。

わたしは、歴史学を研究しています。
歴史というのは、関心のある方はお気づきのことと思いますが、「いくさ」で溢れかえっています。お子さんが学校で使っている歴史年表のページを開いて、そこに挙げられている項目から、戦争にかかわる出来事を除いてしまうと、年表がスカスカになってしまうはずです。
わたし自身、正直言って、戦争ばかりしている人間の歴史を研究することに、つくづく嫌気がさすことがあります。

そんななかで、日本国憲法第9条は、奇跡のような存在と言ってよいものです。
それは、「いくさ」に満ちた歴史の濁流のなかに浮かぶ救命筏のようなものです。
この筏は、ルソーやカントのような西洋の思想家の考えたことだけでできているのではありません。軍備撤廃や非戦論をかかげて闘ってきた日本の平和思想の流れがあり、その流れを力ずくで押しつぶした戦前・戦中の暗い時代の経験を糧として、はじめて憲法9条というこの筏は成立したのです。

わたしたちは、憲法の施行以来68年間、この筏に乗っているおかげで、かろうじて激しい濁流のなかにのみこまれずに、ここまで来ました。
ずいぶん泥水をかぶって、壊れかかっているところもたくさんありますが、それでもなんとか持ちこたえてきました。

安倍政権は、幾世代もの、世界と日本の人びとの痛切な経験と思索の結晶であるこの筏を破壊して、わたしたちと、わたしたちに続く世代の人びとを、「いくさ」の濁流のなかに再び投げ込もうとしています。
そのようなことを、わたしは、断じて認めることはできません。

2つ目にわたしがお話したいことは、この筏にわたしたちが乗りつづけられるかどうかということは、日本に住む人びとの生命と安全だけにかかわる問題ではない、ということです。
先日、島根県の松江で行なわれた安保法制反対の集会に参加する機会がありました。
そこで、あるお寺の住職の方がスピーチをされて、わたしはそのお話がたいへん印象に残りました。
住職は、日本国憲法の前文にある平和的生存権の規定に触れて、こうおっしゃいました。「これは、わたしたちが人から殺されない権利だけを言っているのではない。わたしたちが人を殺さない権利をも含んでいるのだ」、と。

わたしは、ああ、これはほんとうに大切な点だ、と思いました。
わたしたちの憲法は、「人を殺さない権利」を保障しています。それだけでなく、さらに「人を殺すことに加担しない権利」も保障していると考えることができます。
じっさい、2004年のイラク派兵差し止め訴訟は、「戦争に加担しないで平和に生きる」権利が否定されたことを理由として、提訴されたのです。この裁判で、2008年の名古屋高裁の判決は、憲法の前文に書かれている平和的生存権は、すべての基本的人権の基礎を為す権利であることを認めました。

今回の安保法制が実行に移されると、海外に出ていった自衛隊員が、武器をじっさいに使用する確率は格段に高くなります。
武器を向ける先には、かならず生きた人間がいるのです。
相手が何者であれ、また、どのような理由であれ、引き金を引くことを認めれば、自衛隊員が他国の国民を殺す可能性はかぎりなく高まります。
自衛隊員でないわたしのような者は、自分で直接銃を撃つことはないかもしれませんが、この安保法制を容認してしまえば、自衛隊員が銃を撃って他国の国民を殺す可能性を高めることに加担することになります。

昨年4月、安倍政権は、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」に変更することによって、武器の輸出入を事実上解禁しました。経団連は先週9月10日、武器の輸出を「国家戦略として推進すべきだ」と提言しました。すでにわたしたちの「人を殺すことに加担しない権利」は侵害されつつあります。
これ以上、このような方向にこの国を進ませてはなりません。
日本の住民の平和的生存権を踏みにじるのみならず、世界の他の諸国民の生存権をも危うくする安倍政権の一日も早い退場を、わたしは求めます。

わたしがお話したいことの3つ目は、安保法制をめぐる日本の状況が、外からどのように見えているか、ということです。
わたしはポーランドの歴史を研究しているので、ポーランドのラジオ放送をインターネットで聞くことがあります。
国会を12万人がとり囲んだ8月30日のデモのあとで、ポーランドのラジオ放送局が、アジア研究の専門家をスタジオに招いて、約10分間の時間を使って解説番組を組みました。
この同じデモについて、自分の国のことなのに、7時のニュースで2分半しか時間を割かなかったNHKとは、おおきな違いです。

ポーランドの解説者は、安保法制に反対する声が、いまや日本中の、あらゆる世代の、さまざまな職業の人びとに広がっていると伝えました。
そのうえで、それでもなお安倍政権が方針を変えないのは、法案をとおしてしまえば、いずれ日本国民はその状態に「慣れていくだろう」と見込んでいるからだ、と指摘しました。
そして、これからどうなるか、見ていきましょう、と言って、番組を締めくくりました。
この解説番組は、遠く離れたポーランドから、かなり正確に日本の状況を伝えていると思います。

じっさい、おとといの参議院特別委員会で、「国民の理解が高まらない中での採決に反対する」という野党からの批判に対して、安倍首相は、安保法制が成立すれば、「時が経ていく中で、間違いなく理解は広がっていく」と答弁しています。
ポーランドの解説者が指摘するとおり、安倍首相は、いまはこんなに反対の声が多くても、いったん法案がとおってしまえば、そのうち国民は「慣れていく」だろうと、たかをくくっているのです。

参議院での採決がどうなるかは、まだわかりません。
しかし、法案がどうなろうと、はっきりしていることが1つあります。
わたしたちは、今度こそ、国民が「慣れていく」ことを織り込んだ安倍政権のたくらみを、これから声をあげ続けて、ほんとうに止めなければならない、ということです。
今後、どのような展開になろうとも、いま、わたしたちが感じている、このやりばのない気持ち、こみあげてくる怒りを、忘れないようにしましょう。
安倍のやり方に「慣れていく」なんて、ありえない。
わたしたちが、ほんとうの意味で民主主義を自分のものとしていくのは、まさにこれからです。
ともに、粘り強く、幅広く、したたかに、声をあげていきましょう。

ありがとうございました。


☝2015/09/13 とめよう!戦争法 立ち上がろう!9.13集会@円山野外音楽堂(藤原辰史)

 自由と平和のための京大有志の会、発起人の藤原辰史です。いま、会場に来ておられるみなさんに心から連帯のあいさつをお送りします。

 安保法制に反対するために、すでに京都や滋賀の大学で連帯の動きがでてきています。

 立命館大学、龍谷大学、同志社大学、佛教大学、京都府立大学、京都橘大学、京都工芸繊維大学、京都教育大学、花園大学、京都産業大学、京都女子大学、滋賀大学、滋賀県立大学、京都大学などで、安保法制に反対する会ができました。8月5日には、アバンティきょうとホールで、京都の大学が集まり、安保法制反対集会を開催しました。9月1日には、わたしたち自由と平和のための京大有志の会が京都大学で安保法制反対集会を開催しましたが、ここにも多くの大学からスピーチをいただきました。ほかにも、各大学でさまざまな集会が開かれています。毎日新聞の報道によると、大学の数からいって、京都は、東京よりも、有志が立ち上がる比率は高いらしいですね。他人と協力して行動をすることは、他人と違うことをやりたがる一匹狼の多い大学の研究者にとってはとても珍しいことです。そこまで時代が危機的であることのひとつの証拠です。

 さて、わたしは、学問に携わる人間として、以下の論点をあげたいと思います。

 安倍政権は、参議院から中国や北朝鮮の脅威を持ち出しています。しかし、本当に中国や北朝鮮は脅威なのでしょうか。わたしたちがまず立ち向かうべきものとは、本当に中国なのでしょうか。わたしはずっと前から言っているのですが、日本は、世界有数の自然災害列島です。台風、大雪、洪水、ゲリラ豪雨、火山の噴火、そして地震。福島、栃木、茨城、宮城で堤防が決壊。多くの命が、つねに自然災害によって危機にさらされています。自然災害こそ、わたしたちがまず立ち向かうべきものなのではないでしょうか。

 また、経済格差が広がり、ギリギリの生活を強いられています。派遣法の改悪によって、もっと働く人々のくらしは苦しくなっていくでしょう。わたしたちが立ちむかうべきなのは、貧困問題であり、労働問題ではないでしょうか。オスプレイを10台購入したり、経団連に武器を作らせたりする前に、もっと大切なものに、わたしたちの税金は使われなければならない。いのちを犠牲にする経済成長なら、そんな経済成長なんて、わたしはまっぴらごめんです。

 では、このような本末転倒した政権にたいして、これから、どのように戦うべきでしょうか。

 まず、わたしたちは執念深いということ。とりわけ歴史研究に携わるわたしたちは、忘れないことは得意です。
 連休が来れば国民はわすれる、といって国民を愚弄した首相周辺のこと。
 法的安定性はかんけいない、といった首相補佐官のこと。
 ナチスのやり方を学べば良い、といった副首相のこと。
 デモはテロだといった、自民党幹事長のこと。
 マスコミを懲らしめる、といった自民党員のこと。
 戦争にいきたくないのは利己的だ、といった元自民党員こと。
 沖縄の二つの新聞はクズだ、といった首相のお友達の小説家のこと。
 国会でまったく答弁ができていない、防衛大臣や首相のこと。
 正しいことをいおうとする勇気ある若者や宗教者に対して、陰湿ないやがらせをしようとする人たちのこと。
 そして、それらすべてに責任があるにもかかわらず、それらすべてに対して批判も抗議も失望の言葉もいわなかった、首相のこと。

 わたしたちは、これらすべての人々こそ、わたしたちがいま立ち向かわなければならない災いであることを、肝に銘じるべきです。

 わたしは、歴史学者としてみなさんにお約束します。みなさんのあらがい、みんさんの歩み、みなさんの思いを、かならず歴史に書きます。安保法制の廃案を目指して、ともに戦い、この戦いを歴史に刻みましょう。


☝2015/9/13 左京区1000人委員会デモ@百万遍(駒込武)

みなさん、こんにちは。
「自由と平和のための京大有志の会」の発起人のひとり駒込です。
わたしたち有志の会では安保法案に反対する声明書をつくり、それを20以上の言葉に翻訳して、ネット上で発信してきました。
中国語や朝鮮語はもちろん、ベトナム語やベブライ語もあります。
そのなかには、左から右に読むのか、右から左に読むのか、わからないような文字もあります。
それでも、そうした試みをしているのは、日本だけが平和であればよいという「一国平和主義」「自分本位の平和主義」では、結局、自分たちの平和も守れないと思うからです。
平和というのは、民族や国境を越えた対話のなかで支え合うべきものだと思うからです。

ひるがえって、安倍政権は、一体何をしているのでしょうか?
先日、中国で抗日戦争勝利記念式典が開かれました。
本来ならば、日本の首相こそが、まっさきに日中戦争勃発の地である盧溝橋に行って、すべての戦争犠牲者のために頭を垂れるべきだったのではないでしょうか。
それにもかかわらず、式典に出席しないばかりか、パン・ギムン国連事務総長が出席したことについて「中立的でない」と文句を言い、「大切なことは中立ではなく、公平公正なことだ」とたしなめられると、今度は「不愉快だ」と言い出す始末です。
そんなひとりよがりの言葉は世界には通用しません。
日本の中ですら通用しません。

先日発表された、いわゆる「戦後70年歴史談話」なるものも、ナンセンスです。
安倍首相は、子どもたちの世代にこれ以上、謝罪させたくないと語りました。
本当にそのように思うならば、かつての日本人による犯罪的行為を認め、謝罪し、さらに被害者個々人に対して補償すべきなのです。
植民地支配や侵略戦争の責任をめぐって日本政府がこれまで交渉してきたのは、蒋介石独裁政権下の台湾の政府、朴正煕独裁政権下の韓国政府、そして文化大革命さなかの中国政府に対してでした。
戦後の東西冷戦に便乗して、謝罪も、補償も、曖昧にしたまま、「国交正常化」につとめてきたのでした。
北朝鮮政府に対しては、それすらなされていません。
台湾や朝鮮半島の人びとは、植民地支配下において「独立」への願いはもちろん、台湾議会や朝鮮議会を設置して「自治」を実現しようとする思いすらも否定され続けました。
そうした経験をした人びとに対して、日本政府が謝罪や補償をしたことはありません。
中国大陸において日本軍の侵略により自分たちの生活の場を蹂躙され、家族を殺された人びとに対しても、明確な謝罪や補償をしたことはありません。
日本政府は、一貫して、民間ベースで進められる謝罪と補償を阻止し、妨害しようとしてきたのです。
とりわけ安倍晋三という政治家は、1990年代に「アジア女性平和国民基金」という中途半端な形式で、かつて日本軍「慰安婦」とされた女性に対して謝罪と補償をしようとした際にも、一貫してこの動きを否定して、妨害してきた人物です。
一度としてきちんとした謝罪をしたことなどないにもかかわらず、「これで謝罪はおしまいだ」などといっているのです。
そんな態度は、外交政策としてみても、最低です。

子どもたちの世代に平和な生活を引き継いでいくために必要なことは、米国との軍事同盟にすがることではありません。
東アジアの人びと、さらに世界中の人びとと、民間ベースで自由と平和のための願いを共有していくことです。
みなさんで力をあわせて安保法案を廃案にし、世界に対して恥ずべき日本の首相を退陣に追い込みましょう。


☝2015/9/11 SEALDs関西街宣@梅田ヨドバシカメラ前(駒込武)

「自由と平和のための京大有志の会」の発起人のひとり駒込です。
先日、私たちの有志の会が京都大学で主催した集会でSEALDs関西の方が本当にすばらしいスピーチをしてくださったので、自分も少しでも力になることができればと思って、やってきました。

安保法案について、安倍首相も、政府・与党も、戦争をするつもりはない、戦争をなくすための法案だと言っています。
主観的には、本気でそう思っているのかもしれません。
ですが、私は、ナンセンスだと思います。
なぜならば、この法案を決めるプロセスそのものが、すでに戦争モードだからです。
戦争がもたらすマイナスの側面、負の側面を先取りに的に実現しているからです。
この法案に先だって、安倍政権がおこなってきた数々の政策も、すでに戦争モードです。
戦争モードで法案の審議を進めながら、戦争をするつもりはないのだといわれても、ナンセンスというほかはありません。

戦争とは、外国と戦闘をすることだけではありません。
国内における人、モノ、情報のすべてを戦争目的に照らして選別し、政府から見て無駄なもの、有害なものを排除し、抹殺することでもあります。
4つの例を挙げたいと思います。

1つめは、昨年末に強行採決された秘密保護法です。
それは、情報の共有という民主主義の基本であるはずのものが、安倍政権にとっては有害無益であることを示しています。
NHKの経営層に極端に右翼的なお友だちを配置したり、朝日新聞へのバッシングを首相官邸が支持したことも、同じです。
実際の戦闘行為が始まっているわけでもないにもかかわらず、言論統制という点では、わたしたちの社会はすでに戦場化されつつあります。

2つめは、私自身にとっての職場である京都大学にかかわることです。
下村文部科学大臣は、国立大学における文科系の学部を縮小するという方針を示しました。
もちろん、いきなり「つぶす」とはいいません。
ただ、「文科系学部の整理縮小を実現したら予算を増やしてあげるよ、その反対に、何もしなかったら、まあ、それりにね」とやんわりと言うだけです。
ですが、政府・文部省に財布を握られているために、多くの国立大学が、このひとことに大きく揺さぶられています。
私は教育の歴史を研究しているので、今回の事態に接して、戦争中の「学徒出陣」のことを思い出しました。
日本の敗色が濃厚になった1943年のこと、それまで徴兵を猶予されていた大学生もまた学徒兵として戦場に赴くことを迫られました。
学徒兵とされたのは、文科系の学部の学生、理科系でも農学部農業経済学科など、政府から見て「役に立たない」学問をしている学生でした。
ここでの問題は、文系と理系とどっちが大切かということではありません。
政府が勝手に学問の価値を決めて、ひとのいのちの値踏みをすることです。
同じ時期に、文科系の学部の整理縮小も進められました。
とにかく戦争遂行という国家目的に役立つ学問だけをしろということです。
それは、大学の戦場化です。
安倍政権は、1943年という戦局が押し詰まったときになされたことを、まだ実際に戦闘が起きているわけではないにもかかわらず、実現しようとしているのです。
そんな人が、「戦争をするつもりはない、平和のための法案だ」と言ったからといって、誰が信じられるでしょうか。

3つめは、派遣労働にかかわることです。
今日の衆議院本会議では労働者派遣法の改悪が可決されてしまいました。
多くの若者がどんなにがんばって働いても、経済的な事情で結婚することも難しい、子どもを育てることも難しい、そうした事態をいっそう深刻化させる政策です。
他方で、防衛省の予算は大幅に増額されようとしています。
このように人の生命を安く買いたたく政策、人の生命よりも戦闘機などのモノを重視する政策も、戦争モードを先取りするものであり、民主主義を解体するものです。

4つめは、沖縄の基地問題です。
わたしたちは、沖縄では、「戦後70年」と呼ばれる時代のあいだ、実は戦争モードがずっと継続してきたのではないかということを、考える必要があります。
米軍の戦闘機の爆音の被害、米兵による強姦事件、米軍ヘリの墜落事件などは、これまでにも沖縄の社会が戦場化されてきたことを示しています。
それにもかかわらず、どんなに声をふりしぼってあげも首相官邸には届かない、国会からは無視される…。そうした沖縄の人びとの切なさを、今ようやくわたしたちは、リアルに想像できる地点に近づいたのではないでしょうか。
さらには、日本で永住資格を持つ在日外国人が、選挙で一票を投じる権利すら認められてないことも忘れてはなりません。
そうした無念さも、ようやく他人事としてではなく感じられるようになってきたのではないでしょうか。

戦争のできる国家に向けて有用とみえる人、モノ、情報だけを選別し、無用なものを排除しようとする体制は、今日にわかに生じたものではありません。
安保法制はいわばその総仕上げなのだと思います。
だからこそ、わたしたちは安保法制の廃案に向けて、できるかぎりのことをしなくてはなりません。
今こそ、力を合わせて思い上がった権力にクサビを打ち込みましょう。


☝2015/9/6 安全保障法案に反対する京都福祉関係者のつどい@和牛登録会館(石井美保)

こんにちは、「自由と平和のための京大有志の会」メンバーの石井美保です。私には二人の娘がいるのですが、子育てをする中で常々、保育や福祉にかかわる場所は、地域社会の貴重なコミュニティであり、なおかつ社会運動の最前線だと感じてきました。そうした意味で、今日、保育や福祉に関わっていらっしゃる皆さんの集会でお話させていただけることは、とても光栄です。

さて、現在国会審議中の戦争法案は、今月半ばにも参院で採決されるかもしれないという緊迫した事態になっています。それに対して、全国で反対運動が巻き起こっていることは、皆さんご存知のとおりです。私たち京大有志の会もこれまで、さまざまな集会や勉強会を開いてきました。こうした活動から私自身がはっきりと再認識したことは、この法案は論理的にも、法的にも、倫理的にも破綻しているということです。

第一に、集団的自衛権の行使は、明らかに違憲です。第二に、政府が安保法制の必要性の根拠として示す事例の多くは、集団的自衛権ではなく、個別的自衛権で対処すべきものです。第三に、この法案は、憲法改正という手続きを経ずして一内閣が解釈改憲を行うという点で、立憲主義を踏みにじるものです。
こうしたことは、既に多くの方が指摘されている正論です。ですが問題は、今の安倍政権は正論に対して「聞く耳をもたない」ということです。聞く耳をもたず、あくまで数の力で押し切ろうとする相手に対して、私たちはいったいどうすればよいのでしょうか。

これは先日、京大で開かれた集会で山室信一さんがおっしゃっていたことですが、私たちができることは、端的に、「忘れない」ということです。具体的な行動ももちろん大事なのですが、まず何よりも、私たちが今、強い危機感をもって認識している現政権の危険さと愚かさを、「しつこく覚えている」ということです。私たちがこの危機感を持ち続け、選挙に反映させれば、安倍政権の退陣、そして戦争法案の廃案は、不可能ではありません。

では、どうやったら私たちは、「けっして忘れない」でいられるのか。そんなこと簡単だ、忘れるわけがない、と思われるかもしれません。しかし、私は思うのですが、怒りを持続するにはそれなりのエネルギーが要ります。日常生活に紛れて怒りは諦めに変り、声を上げ続けることが億劫になるといったことは、よくあるのではないでしょうか。ただ自分のためだけに燃えるような怒りを持ち続けることは、それほどたやすいことではありません。

でも、同時に私は思うのですが、自分よりも大切な誰かのために怒るとき、その怒りはもっと静かで、それでいてずっと長続きするのではないでしょうか。

そして現在、戦争法案に反対している人たちの多くが、自分以外の誰かのために声を上げているのだと思います。たとえば、「安保関連法案に反対するママの会」は、「誰の子どもも、殺させない」というメッセージを掲げています。このメッセージには、自分の子どもへの想い、これから生まれてくる子どもたちへの想い、そして、見も知らぬ異国に暮らしている子どもたちへの想いが、分け隔てなく込められています。

若い人たちも、戦場に行くかもしれない当事者として、危機感を表明しているだけではありません。先日、京大の西部講堂で開かれた集会で、SEALDs Kansaiの女子学生は次のように語りました。「私は教師になりたい。教師を目指す者として、子どもたちを将来、戦場に送りこむような法案に対して反対の声を上げずにはいられません」と。

私たちがこの先ずっと、何があってもこの危機感と怒りを「忘れない」ことを可能とするのは、こうした自分ではない誰かへの想いと、その人の人生に対する想像力ではないでしょうか。誰かへの想いと責任感に裏打ちされた怒りは、一時的な憤懣を超えて強い意志となり、自分よりも大切な人の人生を脅かすものへの粘り強い抵抗と連帯を生みだすと思います。

そうした怒りは、現政権が姑息な手段でコントロールしようとしている「国民感情」などといったものではなく、より強く、安定していて、しぶといのだということを、皆さんと一緒に示していきたいと願っています。

最後になりましたが、京大有志の会の声明書は今、20か国語以上に翻訳されていますが、その中には子ども語訳も登場しています。最後に、それを読み上げさせていただきたいと思います。

くにと くにの けんかを せんそうと いいます

せんそうは 「ぼくが ころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません

せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます

わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない

うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない

げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい

がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない

じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じゃまするんだ

だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしは おおきなこえで 「やめて」 というんだ


☝2015/9/4 SEALDs KANSAI街宣@京都タワー前(小関隆)

皆さん、こんばんは、京都大学の小関です。京大有志の会の1人として、お話しさせていただきます。

既にお読みいただいている方もおられるかもしれませんが、7月2日に発表した私たちの声明書には数日前までで2200人をこえる賛同が寄せられています。年齢でいえば従軍を経験された94歳の方から下は小学生まで、また、24の言語に訳したためもあって、地域的には欧米からアジアやラテン・アメリカまで、文字通り世界の津々浦々から賛同の声が届いています。

さて、今日はちょうど昨年が開戦100周年にあたった第一次世界大戦を例にとって、戦争というものの特徴を4点お話ししたいと思います。

第1点、戦争はあれよあれよという間に始まります。第一次世界大戦の引き金はオーストリア皇太子がサライェヴォで暗殺された事件だとよく言われますが、この事件が発生した時、これがまさか戦争にまで至ると予想していた人はほとんどいませんでした。ところが、暗殺の1ヵ月後には戦争が始まってしまいます。そして、これが肝心な点ですが、戦争を回避できなかった権力者たちは決してその責任を負おうとはしません。たとえば、開戦の時点でイギリス政府のナンバー2であったロイド・ジョージは、回顧録の中で、誰もが煮えたぎる鍋に否応なく滑り落ちてしまった、という趣旨のことを述べています。誰も戦争なんかしたくなかった、しかし状況に抗しえなかったんだ、仕方なかったんだ、ということです。あの原発事故の時の「想定外」という言い訳に大変に似ていないでしょうか? 「断じて」「絶対に」日本が戦争に巻き込まれることはない、などというセリフを信じてはいけないことは明らかです。

第2点、戦争はあっという間に拡大します。第一次世界大戦も当初はオーストリアとセルビアの間の限定的な戦争のはずでした。しかし、世界の各地を巻き込む大戦争になるまで時間はかかりませんでした。その大きな理由は、唯一の理由ではないにせよ、軍事同盟です。オーストリアの戦争を同盟国であるドイツは助けなければならない、セルビアの側でロシアが参戦するなら、同盟を結ぶフランスも参戦しなければならない、そしてこれらの国の植民地も、という展開です。日本の参戦も日英同盟を口実としたものでした。今の安保法制の内実が軍事同盟の強化に他ならないことは、改めて確認する必要もないでしょう。戦争を拡大させるメカニズムに自ら身を投じようというのは愚かです。

第3点、戦争を終わらせるのは非常に困難です。第一次世界大戦が始まった夏、戦場に向かう兵士の多くがクリスマスまでには家に帰れるつもりだった、とはよく言われることですが、実際の戦争は4年以上もつづきました。ローマ教皇庁が、あるいは、参戦前のアメリカ大統領が講和を仲介しようとしましたが、まったく成果に結びつきませんでした。どうしてそんなことになってしまったのか、もちろん、そこにはたくさんの理由があります。ここでは1つだけ、実は多くの国民が中途半端に戦争を終えることに反対したことを指摘しておきたいと思います。もしかすると、これはやや意外な話かもしれません。しかし、いったん戦争の渦中に投げ込まれ、肉親や友人が死んだり、飢えに苦しんだり、といった犠牲を強いられた国民の心情は、しばしば、これだけの大きな犠牲を払った以上「敵」を徹底的に叩き潰すまで戦争をやめてはならない、という方向に傾きます。もちろん、戦時のことですから、「敵」をモンスターかなにかのように描き、憎悪を煽るプロパガンダも振りまかれるでしょう。戦争というものの怖さ、実はこのあたりにあるような気がしてなりません。交戦相手国とその国民を「敵」と認定し、「敵」を憎悪する心情、世界を「敵」と「味方」に分けようとする思考様式が、戦争をする中で根を張ってゆくわけです。このことは次の第4点につながります。

第4点、戦争はよりよい世界の構築にはつながりません。世界を「敵」と「味方」に分け、「敵」を憎悪する心のありようは、戦争が終わったからといって、簡単に変えることはできません。特に戦争に敗れた側では、間違いなく復讐心が増殖してきます。戦争で無念の死を遂げた友のために敵討ちを、などという思いを抱えた人々で溢れる世界がよりよいものになれるのかどうか、私は懐疑的です。また第一次世界大戦の話をすれば、遅れて参戦してきたアメリカは、参戦の目的として、「民主主義にとって安全な世界」をつくる、というそれ自体はきわめて高邁なスローガンを掲げました。それでは、アメリカの側が第一次世界大戦で勝ったことによって、世界は「民主主義にとって安全」な場になったかといえば、まったくそんなことはありません。ファシズムとコミュニズムに挟まれて民主主義が次々と砕けてゆく、これが第一次世界大戦後の趨勢でした。また、戦争の暴力が連鎖してゆく点も見逃せません。大規模な世界戦争は終わっても、内戦や国境紛争、革命と反革命の暴力的な抗争、等、相対的に小規模な戦争は世界の各地で絶えることがありませんでした。戦争のリスクを明らかに高める安保法制が、「世界の安全と安定に寄与する」などということはありえません。

あとは一言だけに充分です。立憲主義の原則を骨抜きにする安保法制、今の政権が呆れるほどデタラメな手法で強行しようとしている安保法制に、私は心の底から反対します。ありがとうございました。


☝2015/7/20「戦争法案に反対する左京女性の会」百万遍アクション(石井美保)

こんにちは、「自由と平和のための京大有志の会」メンバーの石井美保です。
私はここ10年以上、百万遍近辺をうろうろしてきましたが、拡声器を持ってお話しするのは今日が初めてです。ここにこうして立ってみると、大学の教室で学生を前に話すよりも、路上で声を上げることのほうが、ずっと度胸がいるということがわかります。しかし私はいま、路上で声を上げることこそが重要だと思っています。それぞれの居場所を超えて、連帯することこそが、現在の政治状況を打開するために必要だからです。

今日、私は「京大有志の会」のメンバーとして、また、子どもをもつ母親として、そして人類学者としての三つの立場からお話しさせていただきたいと思います。

1)まず、「有志の会」のメンバーとして。
今回の安保法案につながる政府の不穏な動きのひとつとして、特定秘密保護法の制定が挙げられます。ですが、それだけではありません。
私たちが、この「有志の会」を立ち上げた背景には、偏った教育を推進し、学問の自由に介入しようとする政治権力への強い危機感がありました。

たとえば今年の6月には、下村文科相から国立大学に対して、式典などの際に国旗掲揚・国歌斉唱をするようにとの要請がありました。また、国立大学の教員養成・人文社会系の学部や学科に対して、規模の縮小や廃止を求める圧力が強まっています。
こうしたことはすべて、ひとつながりの問題として考える必要があります。つまり、大学に対するこれらの政治的な要請や圧力は、私たち一人一人が過去の歴史や先人の思想をふまえて考え、世界を理解し、自分の意見を自由に述べる機会と力を奪い、主権をもつ国民ではなく、政治権力にとって都合のよい「臣民」へと変えていこうとする動きの一環として考えられるのです。

しかし、こうした安倍政権の思惑は決して成功していないし、これからも成功することはないだろうことは、いま、日本各地で巻き起こっている反対運動を見れば明らかです。
私たちは、国家の統制を受けることなく自由に学び、自分の考えを発信し、対話する権利を守っていかなくてはなりません。

2)つぎに、子どもをもつ母としての立場からお話しさせていただきたいと思います。
私は二人の娘の母として子育てをする中で、日々、いのちを肯定すること、その大切さの普遍性を実感しています。
みなさんもご存知のように、この京都から、「安保関連法案に反対するママの会」が立ち上がり、現在、全国から1万6千人を超える賛同者を集めています。この「ママの会」のメッセージは非常にシンプルで、かつ説得的です。
「誰の子どもも、殺させない」。「ママは、あきらめない。絶対に止める」。

毎日、成長していく子どものいのちに向き合うことから生まれる確信と、覚悟がこのメッセージには込められていると思います。
私たちは、子どもたちの現在と未来のために、それを脅かす政治権力に対して、断固として反対の声をあげていかなくてはなりません。

3)最後に、人類学者という立場からお話しさせていただきます。
私はこれまで、人類学者として、インドの社会運動を研究してきました。私が彼らの社会運動から学んだことは、次の三つの要素の重要性です。
①一人一人の集合としての数の力、②それぞれの立場や差異を超えた連帯、③強制されたものではない言葉の力。
この三つが、ときに「持たざる者」である普通の人々が、政治を動かす大きな力を生みだします。

そして、この三つの要素は、いま日本各地で起こっている、安保法制に反対する運動の中にも確実に見られるものです。一人一人が自分の言葉で語り、それを発信し、非常にすばやく連帯の輪が広がっていっています。こうした動きをみるとき、私は、非常に厳しい状況の中でも、新しい社会運動が生まれていることへの希望を感じずにはいられません。

私たちは7月2日に「有志の会」を立ち上げ、ウェブサイトに声明文を掲載しました。その後、わずか三週間足らずの間に、フェイスブックでの「いいね!」やシェアが二万人を超えました。そして、この「左京女性の会」をはじめ、さまざまな運動との連帯が生まれています。
この連帯は、さらに拡大し、大きな力を生みだしていくものと私たちは確信しています。

安倍政権の暴走を止め、私たちの自由と平和を守るために、一緒に行動していきましょう。

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