スピーチ原稿集 » 戦争とわたし(医王 滋子)

函館

 私は大正15年、1926年の5月に、北海道で生まれました。今、90歳です。
 1933年(昭和8年)、函館市内の小学校に入学しました。
 当時、港には濃いネズミ色の軍艦がとまっていて、街の中を海軍の水兵さんが歩いていました。セーラー服姿の水兵からサインをもらうのがはやっていて、私もサインをもらったりしていました。
 小学校の坂の上は山の裾で、鉄条網が張りめぐらされ、内側を、大きな犬を連れた 陸軍の兵隊さんが見張りをしていました。

父の退職

 1936年(昭和11年)2.26事件がありました。当時、父は、函館の鉄道病院の院長でしたが、急に、退職することになりました。
 私が小学校4年生の時です。「どうして辞めるの?」と聞いたら、父は私のわからない言葉を言いました。

「すまじきものは宮仕え」

 ・・・・・それは覚えました。
 父は退職をして、翌年、京都で開業医になりました。私は、西京極小学校に転校しました。

教育勅語を叩き込まれる

 何かそのころから、押し付けられる感じのものが入ってくるようになりました。
 先ず、小学校の5年6年では、毎朝、教育勅語の暗唱。
 あれは、漢文体で書かれた文章で、字引を引いても、わけのわからない言葉がずらっと並んでいます。
 先生が、やさしい言葉で説明して下さったから、子ども心にそれだけのストーリーはきちんと叩き込まれて、今に至るまで忘れない。

「日本は天皇制の国だ。これは世界に誇るべき国柄なのだ。」

 それを「国体」という言葉で叩き込まれました。

「二十歳を過ぎて、男の子は徴兵になれば、命を捧げるということ、潔く散ること、桜の花の見事に散る美しさは、命をためらわないで捨てる美しさであり、それを最高の美徳」

として教え込まれました。

歴代天皇の名前を唱える日々

 それから、もうひとつは、歴代天皇の称号を覚えることもありました。
 小学校の5,6年の子どもが、毎朝、授業の始まりに、歴代天皇の称号か、教育勅語かどちらかを、「修身」の教科書をちらちら見ながら、大きな声で唱えるのです。
 担任の先生から指名されて、暗唱させられるのは本当にこわかった。
 うまく言えない子どもに対して「不忠者」(ふちゅうもの)と言われました。
 神武天皇から大正までの天皇の名前を、全部、暗唱することを強制させられました。
 そうして、初等教育のなかに、既に「国家主義」というものが何の疑問もなく入っていたのです。(1937年・昭和12年)

京都府立第1高等女学校に入学

 1939年(昭和14年)、小学校を卒業し、京都府立第1高等女学校に入学しました。
その女学校は、世間の後期中等教育の高等女学校ですが、よその女学校でやっているような「軍事教練」というのは卒業するまで全くありませんでした。わら人形を作って、槍で突き刺しにいく、というような練習も、全くなかったです。
 入学式の時の校長先生の言葉に

「この学校には校則はない。生徒の自主自立にまつ。」

「まつ」の意味がわからなかったので、辞書を見たがわからず、「俟つ(マツ)」の字が「たのみにする、望みをかける」の意があることを知り、多分この字だろうと思ったことを思い出します。先生方も、授業中に戦争の話をなすったのも全く記憶にありません。
 外国は、ヨーロッパが憧れで、日独伊三国同盟を結んでいた頃ですから、ドイツとイタリアについて一番情報が多かったです。女学校の図書館に、現代日本文学全集や世界文学全集が開架式書棚に並んでいて、自由に読むことができた。ゲーテはドイツの人だと思って読んでいました。
 女学校時代に先生方が戦争のことをおっしゃらなかったというのは、やっぱり、ひとつの自由主義的な教育のあり方というものを守ろうとしていた、そういう学校だったんじゃないかと、その時は思わなかったけれども、卒業してから後に、特に戦後になってから、強く思うようになりました。

 英語の授業は、女学校の3年生でなくなり、4年、5年は英語が家庭科の時間に変わり、非常にショックでした。男子中学校では英語はそのままあったのに、英語の時間はすべて家庭科に変わりました。
「女子に英語は要らない」というのが文部省の通達だったそうです。その年、数学の教科書が見た目は今までと全く同じ装丁なのに、表題に「女子」とついたものが使われるようになりました。その時の不快感は忘れられません。数学そのものがいやになりました。この時、「戦争に勝ったらアメリカやイギリスの人たちに英語を話さんと私らのこと、わかってもらえへんのに。」と友だちとこっそり話していました。

 英語の先生が授業中に「僕はドイツが嫌いなんだ。」と言われたので、誰かが「先生の好きな国は?」と聞くと「僕はフランスだ。」と言われました。「いやあ。」とみんなが言い、後で「あの先生、あんなこと言わはって、日独伊三国同盟あるやないの。フランスっていうのは、なんかちょっと違うやないの?」「あの先生、非国民でひっぱられはったらどないしよう。」と言って、こっちの方で心配したっていうことだとか、そういう面白い雰囲気の女学校でした。
 その時の私の不十分な知識でも、ドイツとフランスは互いに戦争をし続けている国だと思っていたので、その先生の言葉は今に至るまで強いゆさぶりだったことを忘れていません。
 ロシア文学では「罪と罰」や「アンナ・カレーニナ」は、私に、全く考えたこともない人生があることを知らせてくれました。

国家総動員法

 そして、1938年(昭和13年)国家総動員法を公布。
 女の人も男の人も戦争に必要のない職業は辞めさせて、戦争に必要のある仕事だけさせるように強制していく。赤紙の代わりに国家総動員法の人的資源として徴用される時は、「白紙・しろがみ」が来る。赤紙は召集令状。戦争をする国になっていきました。
 京都でいうと、友禅業がもうできなくなるわけで、モンペをはかなければならなくなっていきました。
 女学校に入ったのは国家総動員法が制定された翌年でした。その年の9月から毎月1日は「興亜奉公日」。朝礼も始まりました。大東亜共栄圏をつくり、「その盟主は天皇である」と教えられました。
 1939年(昭和14年)から白紙(しろがみ)の「召集令状」がくると、戦争に関係のないものを製造販売している人はもうそれができない。総動員法による法令が次々発布され、職業も「これをやれ、あれ、やったらあかん」ということが身近に国民のなかに起こってくる。
 京都は友禅業が盛んで、西京極にも友禅工場がかなりありました。それが、戦争に必要なものだけを造るようになりました。
 若い人、丈夫な人はみんな戦争に行っているから身体の弱い人や中年の男性、そういう人たちが人手不足の工場などに「徴用」されるのです。徴用令状は女性にも来ました。
 これまでのように、女学校を出てから家庭で「花嫁修業」することは許されませんでした。そのために、府立の桂女子専門学校に入学を希望する人が急増し、競争率が異常に高くなりました。

日常物資の切符制度、そして隣組

 1938年(昭和13年)頃から、綿糸の配給切符制を実施。木綿の製品、木綿の糸と布が自由に買えない。日常物資の切符制度。下着やなんかも全部、切符で買う。切符は、政府から府県を通して、町内会から「隣組」まで下りてくる。
 「隣組」は国民統制のために1940年(昭和15年)に制度化された地域組織で、町内会の下に数軒をⅠ単位として作られ、食料その他生活必需品の配給などを行ないました。
 「愛国婦人会」「国防婦人会」が作られ、中高年の女性は一人残らず、組織されました。今、「一億総活躍」などと言う言葉を聞くと、思い出してぞっとします。
 国家総動員法を公布して、「非常事態だから国の言う通りにしろ、戦争というのは非常事態だから」と。もう、この時期からチョコレートやキャラメルなどのお菓子が全くなくなりました。
 1938年(昭和13年)からの「公定価格」制度。物は少ない、配給になる、配給が足りない。足りなかったらみんな、ある所をさがして買いに行くから物価が高くなる。
 ほっておいたら、ガーッとすごい値上がりになってしまう。それを防止するために諸物資の公定価格を定める。「戦争だからしょうがない」とみんな思っている。こうして「統制令」が次々と出てきました。
(石油がなくなると「木炭バス」が京都の市内を走るようになりました。)

お米の配給、外米も足りない

 1941年(昭和16年)からお米の配給制度。
 日本のお米だけでは足りなくなり、東南アジア産のお米がはいってきました。米粒が細く、一晩水につけないと軟らかくならなかった。味もパサパサで炒飯にすると食べられました。外米も足りなくなり、豆かす(大豆から油を搾りとったあとの残り)が配給。これも一晩、水につけました。

 日本中の服装が変わる。男性はカーキ色の国民服。「女性はモンペ」「着物のたもとは半分に切れ」と上から指示がくる。私たちは、スカートの上からモンペをはいて女学校に通っていました。

学校が工場になっていく

 ついに、日本中のすべての学校の、授業が全くなくなりました。
 女学校の高学年は伊丹の中島飛行機工場に、1週間泊まり込みで動員されました。一学年250名が行き、工員の元へ配属されます。
 私たちが軍需工場でつくるのは砲弾や銃などの軍用物資でした。円形のドーナツ型の、握り拳ほどの木綿の袋に火薬を詰めては縫い合わせ、高さ数十センチの円柱型砲弾の中にのせていた。飛行機からバラバラと投下される弾が女学生の手仕事を必要として作らされたのです。火薬を詰める作業は大変で、火薬中毒を起こした人もいたようです。
 私は高等女学校を5年で卒業してから更にその女学校の高等科に進みました。高等科は学校の中で「赤トンボ」という木製飛行機の補助翼の骨組みを作らされていました。「赤トンボ」とは、特攻隊が練習に使う練習用の飛行機でした。赤く塗った飛行機でした。指導は大工さんでした。
 男性は少なくなり、市バスの車掌は女性、阪急電車の運転手を中学生(旧制中学・今の高校)がしていました。

1945年、敗戦、

 1945年(昭和20年)8月15日
 その日はお盆で、学校が休みでした。家にいてラジオで「玉音放送」を聞きました。天皇の声を初めて聞きました。父が「負けたんだ。」と言いました。私は「そんなこと、あらへん。負けるということはあらへんのや。」と言い、ワーッと泣きました。
 翌日、学校に行きました。いつもの電車に乗りました。乗客の中高年の人は皆うつろな目つきをしていました。何が何だかわからないような拒絶状態、異常な光景でした。「学校工場」はなくなりました。

 アメリカのマッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、そして、進駐軍が京都にもやってきました。
 京都の四条烏丸、今、京都シネマ(映画館)のあるあたりに「大健ビル」があり、そこがアメリカに接収されて、進駐軍の京都の司令部となりました。
 四条通りを、アメリカ軍のトラックが兵隊をいっぱい乗せて走っていた。見るとアメリカの兵隊の頬はピンクで、軍服は上等のウール、栄養の良い顔だった。トラックの車輪はびっくり仰天するような大きさ。日本の車輪の2倍近い大きさ。6輪だった。ガーッと大きな音でしょっちゅう通っていく。我が物顔に平気で通っていく。歩いている人は、あんぐり口を開けて見ていた。
 一方で、日本の、復員してくる兵士は、がりがりで、服もよれよれに見えた。戦地からやっと帰って来られたのでしょう。痛ましい感じで見ていられなかった。米軍が街を歩いている。派手な服装の日本女性が腕を組んで歩く。戦後、身内を失い、一人になった女性の一つの生き方だったと、私は後になってからわかりました。

1946年の春、女学校高等科を卒業、京都大学へ

 日本は、マッカーサーに一連の「民主化」を命令され、その中に「男女同権」がありました。「女子にも入学資格を与えよ」ということになり、それで私が京都大学に入りました。それまで、大学に入っている女の人はいましたが、東大や京大は、女子を入れませんでした。
 文学部に入学したとき、クラスには、学徒出陣で戦争を体験した人、陸軍、海軍の士官学校を出た人、伊勢の神宮皇学館大学が敗戦で廃校にとなったため、京大に転入学した人もいました。

 卒業後、私は高校の国語の教師になりました。

西京極九条の会をつくって

 2004年、大江健三郎さんらが呼びかけ人となって「9条の会」が作られ、「9条の会アピール」が出されました。
 この呼びかけを受け、私たちも地域で何かできないかと思い、地域の有志で相談して「西京極9条の会」を2005年に作りました。アピール文を地域に7、000枚配布して呼びかけました。
 その時々の情勢に見合うようなテーマを決めて、広く講師をお願いして講演会を開催しています。
 アメリカのブッシュ大統領がイラクに進攻した時は、京大医学部に留学中のイラク人医師・シャキルさんにお願いしてお話をしてもらいました。この時は70人もの方の参加がありました。
 昨年、2015年11月に「10周年のつどい」をしました。
 10年間もやってこられたのは、無理な計画をたてず息長くやること、たとえば「憲法を読む会」を二か月おきに続けていることなど。この担当は2~3人の若い方です。今で、全文の半分ぐらいまで読み終えたところです。

京大有志の会と出会えて

 昨年の9月1日、西部講堂であった京大有志の会の集会に参加しました。
 私の感想文をホームページに載せて下さいました。

「私は89歳、この世に未練がないのではなくあったのです。なすべきことが。この安保法制を叩きつぶし、安倍サンを退陣させるまで生き続けることです。」

と書きました。

 私は、若い時、ずっと国家にだまされ続けました。もう、二度とだまされない。そう、心に決めて今日まであゆんできました。
 それを支えてくれたのが「日本国憲法」でした。私の命と一体のものです。

 高齢者がよりよく生きることに確信を持たせて下さった「京大有志の会」に心から感謝します。