「ブチャは、真の「偉大なるロシア文化」だ。ブルガーコフについてのおしゃべりは犯罪の共犯者になることだ」

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ユーリー・アンドルホーヴィチ
「ブチャは、真の「偉大なるロシア文化」だ。ブルガーコフについてのおしゃべりは犯罪の共犯者になることだ」
「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月6日付
https://wyborcza.pl/7,75410,28305098,andruchowycz-bucza-to-prawdziwa-wielka-rosyjska-kultura.html

ダブリンからウラジオストクまで広がる「共通の価値観」だって? チェーホフ? そしてもちろん、トルストイだと? あなたがたはばかか? あなたがたに心がないことは、私はすでに前から知っていた――ウクライナで最も重要な作家の1人は言う。

* * *

「すばらしき才能に満ちたドイツ国民、世界文化にルターとゲーテ、ニーチェとワグナー、カントとヘーゲルをもたらした哲学者と詩人たちの民族は、ヒトラーと彼のいちばんの側近たちの蛮行には責任がない、アウシュヴィッツ、マイダネク、ブーヘンヴァルト、ダッハウその他のホロコーストの徴候にも、ワルシャワやその他のヨーロッパの数十の都市を略奪して瓦礫の山と化したことにも、責任がない。今日では、ドイツ的なもののすべてを禁止し、ドイツ人に集団責任を負わせるべきだと主張するのは、病的なドイツ嫌いにとりつかれた者か、俗悪なプロパガンダをやる者だけである。偉大なドイツ文化――そのうちの一部分ははとり除いたり封じたりすることが求められるとしても――に対する公然たる攻撃は、野蛮な後進的態度、幼稚な、白か黒かの二項対立的な世界観の表明以外のなにものでもない。ドイツ人も、世界の他の諸国民に劣らず、ヒトラー政権の行動のために苦しんだのであり、この彼らにとって悲劇的な歴史の瞬間に、われわれの支援と連帯を他の誰よりも必要としているのである…」

私には無理だ。私には、たとえば1945年にこのような文章が書かれることは想像できない。ばかげているって? まったくそのとおり。危険だって? そうだ、考えられるかぎり。

この類のばかげて危険な文章を、1945年に、あるいはもっと後になっても、誰かがあえて発表したなどということを、私は聞いたことがない。それでは、なぜいま、2022年には、至るところからこの類のアピールが聞こえてくるのだ?

ウクライナ人の悲劇は、#BuchaMassacre(#ブチャの虐殺)というハッシュタグに縮約された。このタグを使うのはかんたんだ。それによって大きな犯罪を1つの、ただ1つの町に限定することができる。ウクライナ軍が次々に領土を解放していくにつれて、わが国にこのような「ブチャ」が他にもあることが知られ、これからも知られていくだろう。これらの場所のひとつひとつについて、それぞれを語るべきなのだ。ブチャの名前はいま声高に叫ばれているが、ここだけで起こったことではないのだ。

ブチャは(そして他のたくさんの「ブチャ」もすべて)、たまたま起きた残念な出来事でも「一部の兵士の行き過ぎ」でもない。それは、自分の国が起こした戦争によって出口のない状態におかれた「素朴なロシアの若者たち」がパニックを起こした結果でさえない。

これは、前もって計画され、組織的に実行されたロシア国家の政策の一部なのである。この政策の本質は、ウクライナ人を部分的に隷属させることであり、なによりもウクライナ人を根絶することである。

われわれは存在するべきではないのだ。この4,000万人の人口をもつヨーロッパの国民は、存在してはならないのだ。われわれの言語は存在するべきではないのだ。われわれの記憶は存在してはならないのだ。われわれは「非ナチ化」される――ウクライナ人全員、最後の1人にいたるまで。われわれは「非ウクライナ化」される――われわれは生命を奪われるのだ。

1週間前、イスタンブールでの交渉で、ロシアの役人は「キーウ方面での活動を縮小する」と約束した。このとき、いかなる「活動」のことを言っているのか、世界中の誰も思いつかなかった。ありふれた軍隊の動きや、ミサイルの発射や、空からの爆撃のことだろうと考えていた。「ありふれた」という言葉を私が使ったのは、40日間の戦争で、人びとは軍隊の動きに慣れてしまい、警報のサイレンの響きにも身震いしなくなっているからである。

だが、ロシア人の活動はそんなものではなかったことが、あきらかになった。この戦争の最初の日から、そしてそれは彼らが行なってきた他のいろいろな戦争でもすべてそうだったのだが、ロシア軍は民間人に対してこそ、最も効果的に攻撃してきたのだ。言いかえれば、こういうことだ。ロシア軍とは、きわめて多方面に分化した全国民的なテロ組織である。この組織は何十万というメンバーから成り、彼らは、限界を知らない残酷さだけでなく、他に例をみないサディズムを身につけている。ロシアはテロリスト国家である。痛みと、悲劇と、死をまき散らすこと――これがその使命である。「ロシアは独自の道を行く。」

以下は、その活動の例である。

射殺すること。たまたま歩いている人たちを。すべての人びとを。

死から逃れようとしている民間人の自動車を。

その車に乗っていたすべての人を、例外なく。女性も、子どもも。命あって生きている者はすべて――炎と金属によって。

爆弾を落とすこと。クラスター爆弾、白リン弾、その他禁じられているあらゆる爆弾を――人びとの頭のうえに。
病院に、劇場に、博物館に、図書館に、幼稚園に、爆弾を落とすこと。

集団を拷問し処刑すること――後頭部に弾を撃ちこむことによって。われわれ西ウクライナの以前の世代の人びとは、1939~41年に、このやり方を知っていた。後ろ手に縛られ、ひざまずいた犠牲者の後頭部への射撃は、われわれの土地にあったロシアの、ボリシェヴィキの監獄ではどこでも、ふつうのやり方だった。おっと、申し訳ない、「ふつうのやり方」は不適切な言い方だった。より正確に言えばこうだ――「日課となった仕事」だったのだ。

集団的に暴行すること。女性たちと子どもたちを。古来の本能的な悪の集団的な爆発だ。男を殺し、その妻を犯す。そのすべてを彼らの子どもの前でやる。

(ドストエフスキーさん、あなた、どこかで子どもの涙について書いておられましたっけ? それ、少しはロシア人のためになりましたか?)

ウクライナの市民を、占領された地域からロシアの奥地へ、集団的に強制移住させること。すべてが合致し、すべてが繰り返される。テロリストと人質の関係だ。

略奪。強奪。ロシアの兵士たちは組織的にウクライナ人の住居を破壊している――集合住宅でも、一戸建てでも。いたるところで。行き当たったものはなんでも略奪する――古着、靴、酒、装身具、香水、コンピューター、スマートフォン、ナイフ、フォーク…あとに残していくのは、粉砕した世界の残骸と、自分たちの排泄物の山だ。偉大なロシア文化の思い出として。

今朝がた、私は、彼らはたんなる略奪者にすぎない、そうあってほしい、という思いにとらわれた。つまり、いろいろあっても、彼らも人間だ、ということだ。悪い奴、下劣な奴ではあるが、しかし人間だ、と。しかし、われわれが目にしていることは、彼らが人の道を外れてしまっていることを証言している。ロシアの住民は効率よく自らを非人間化しているのだ。反世界になっているのだ。自発的に反人間に転化しつつある人類の一部なのだ。

最後のロシア人が「#ブチャの虐殺」の最後の血塗られたエピソードを終えてブチャを立ち去ったその同じ日に、ヨーロッパ議会のある党派の指導部が「ロシア国民に向けて」新たに声明を発表した。チェーホフとブルガーコフについて。そしてもちろんトルストイについて――この裏表ある怪物を抜かすわけにはいかないから。ダブリンから、もちろん、ウラジオストクまで広がる「共通の価値観」について。なぜ千島列島までと言わないのだ?

存在していないものについて、どうやって声明を発することができるのだ? 尊敬すべき党指導部のみなさん、あなたがたはばかか? あなたがたに心がないことは、私は以前から知っていた。

彼らは愚か者だと私は考えていた。しかし、そう考えるのを私はやめた。彼らはこの犯罪の共犯者だ。彼らが気にかけているのはただ一つのことだけだ――いかに下手人を免罪するか。「#ブチャの虐殺」への憤りは当然表明しなければならない、ただ、自分の憤りによってロシアを憤らせないようにしなければ。そうすることで、ひそかに、彼らはウクライナの抵抗を妨げているのだ。

その抵抗は、しかし、すでに40日以上続いている。敵の無力さは、不可避的に、断末魔に転化しつつある。

春が来る。ウクライナは続くだろう。

ポーランド語への翻訳:Maciej Piotrowski
記事のタイトルとリード文は「ガゼタ・ヴィボルチャ」編集部による。
ウクライナ語の原文はnovapolshcha.pl で発表された。

ユーリー・アンドルホーヴィチは、1960年生まれ。ウクライナの作家、詩人、翻訳家。歌手でもある。ウクライナ西部のイヴァーノ・フランキーウシク在住。
ロシア軍のウクライナ侵攻2日前のインタビューを、このタイムラインで以前、紹介した。
https://www.kyotounivfreedom.com/ukraine_timeline/interview/20220222/

ブチャの虐殺があきらかになってから書かれたこの文章につけ加える言葉を、訳者はもたない。

【SatK】