踊るウクライナ―キーウのお年寄りたちの週末

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年齢やジェンダーによって分節化された戦時の日常について、コモンズ(共有地)として地下鉄の駅の可能性について、などなど、いろいろ考えてしまう。

【SatK】

民謡が若い人たちのあいだで生きている

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5月14日、イタリア・トリノで開催された『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト2022』でウクライナ代表のラップ・グループ「カルシュ・オーケストラ」が優勝

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演奏後、グループのリーダーは「ウクライナを助けて! マリウポリを助けて! アゾフスタリを助けて! 今すぐに!」と呼びかけた。

ユーロヴィジョンで歌われた「ステファニア」のミュージック・クリップ。ブチャ、イルピン、ボロジャンカ、ホストメリで撮影された。

これに対して、15日、ロシアの政府寄りのサイトに「カルシュ・オーケストラ」への悪意をこめたメッセージが書かれた爆弾の写真が投稿された。
「カルシュよ、お前たちの望みどおり、アゾフスタルに落としてやる」
「マリウポリを助けて! アゾフスタリを助けて! 今すぐに!」

「赤いカリーナ」――ウクライナの愛国歌

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「カリーナ」はガマズミの仲間のセイヨウカンボク(学名: Viburnum opulus)。初夏に白い花を、秋から冬にかけて赤い実をつける。ウクライナやロシアでは、実で果実酒やジャムをつくる。

「赤いカリーナ」は、第一次世界大戦時にウクライナ・シーチ銃兵隊で歌われた。「シーチ」とは、近世のウクライナ・コサック(ザポリージャ・コサック)の本拠地のことである。
ウクライナ・シーチ銃兵隊は、1914年にオーストリア軍内に設立され、東ガリツィアでロシア軍と戦った。1918年11月に西ウクライナ人民共和国が独立を宣言すると、この共和国の軍隊組織であるウクライナ・ハリチナ軍のなかに組み込まれてポーランド軍と戦った。その後、東進してウクライナ人民共和国軍に合流し、ボリシェヴィキ軍と戦った。

今年2月、ロシア軍のウクライナ侵攻後に、ウクライナの歌手アンドリー・フリヴニュクがinstagram上で歌った動画によってリバイバルした。

ウクライナ国歌と並んで、この戦争をたたかうウクライナ国民の想いを象徴する歌となっている。

「ピンク・フロイド」がフリヴニュクのヴォーカルに合わせた動画を発表して『ガーディアン』などでもニュースになった。


(このアレンジはあまり投稿者の趣味ではない、申し訳ないけど。)

【SatK】

リトアニア、ヴィリニュス、ロシア大使館前の池が血の色に

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ウクライナでの虐殺に対する抗議の表現。ロンドン・オリンピック(2012年)100m平泳ぎの金メダリスト、ルータ・メイルティーテが血の色に染まった池で泳いだ。

「環境にとって安全な染料」を使ったそうです。

【SatK】

「焼かれた図書館、暴行されて死んだ女性たち、息絶えた子どもたち。ロシア人との平和はありえない」

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マクシム・レヴァダ
「焼かれた図書館、暴行されて死んだ女性たち、息絶えた子どもたち。ロシア人との平和はありえない」
「ガゼタ・ヴィボルチャ」 2022年4月4日付
https://wyborcza.pl/magazyn/7,124059,28297963,spalili-muzeum-starozytnosci-ukrainy-muzeum-marii-primaczenko.html#S.main_topic_ua-K.C-B.1-L.2.duzy

彼らはウクライナ古代博物館、マリア・プリマチェンコ博物館*、オフティルカ、ハルキウの博物館を焼いた。なぜだ?

*マリア・プリマチェンコ(1908~97年)は、ウクライナの素朴派(naïve art)の芸術家。パリで彼女の展覧会をみたピカソは「芸術的奇跡のまえで脱帽する」と述べた。ウクライナの切手のデザインにも彼女の絵が採用されている。(訳者注)
ウクライナの切手のデザインにも彼女の絵が採用されている。

戦争が始まって32日目、チェルニーヒウ

キーウからチェルニーヒウへは車で1時間半で行ける。朝、出発して、チェルニーヒウでまる1日過ごして、夕方には家に戻れる。いつもそうしていた。ずいぶん以前から。

はじめてチェルニーヒウに行ったのは中学生の頃だ。1978年だった。私はそのころ学校の考古学サークルに属していて、夏にチェルニーヒウ州の発掘現場に出かけた。チェルニーヒウまでバスで行って、そこで数時間待って、目的地に向かう別のバスに乗り換えた。

私を含めてサークルの数名の少年たちは学校の許可をもらって、チェルニーヒウに向かった。メンバーの1人のおばあさんがこの町に住んでいた。おばあさんの住所を彼は知らなかったが、五角形広場という不思議な名前の広場に面して家があることを覚えていた。行ってみると、そういう名前の広場がほんとうにあった。広場から数本の通りが広がっていた。

古い庭のなかに感じのよい2階建ての家が並んでいた。通りは静かだった。街中ではなく、どこかの菜園(ダーチャ)にいるような感じがした。騒々しいキーウの都心で育った私にとっては、始まったばかりの旅に楽しいおまけがついているような気分だった。

おばあさんはひとりで住んでいた。彼女の頭のうえに降りかかる雪のように、騒々しい私たちの集団はおばあさんの家に押しかけた。もうお腹がぺこぺこなんです、と挨拶もそこそこに私たちは訴えた。若者は食欲をみせるとうまくいくものなのだ。この古い家でご馳走になったすばらしい昼食を、私はいまでも覚えている。私たちはバスに乗り遅れそうになり、運転手に怒られた。

その後も、すでに始まっている発掘に参加しながら、私たちは休日になるとチェルニーヒウに遠征した。サークルの顧問が現場の考古学者や博物館の知り合いと連絡をとってくれたおかげで、この遠征は、古い時代の都市の歴史についての真の意味での授業となった。

チェルニーヒウは、とても印象的だった。キーウでは、歴史的な遺産は、もっと新しい建造物のあいだに散らばっている。チェルニーヒウの中心部はまったく違っていて、ここでは、中世の物語の世界に入っていくことができるのだ。私たちを案内してくれたのはふつうのガイドではなく、「ほんものの学者たち」だった。彼らは、私たちに、つまり子どもたちに対して、自分の研究について詳しく話をしてくれた。何年たっても、チェルニーヒウに行けば、自分たちが歩き回った場所が私にはすぐわかる。通りを歩いていると、思いがけないときにむかしの思い出がよみがえってきて、子どものときに感じた匂いまで感じるほどそれが鮮やかなので、私は思わず立ち止まってしまうのだった。

キーウからチェルニーヒウへは車で1時間半ほどである。子ども時代の友だちのおばあさんが住んでいたあたりの家はすべて、砲撃で破壊されてしまった。この2週間、市内では暖房も電気も薬もなく、食糧の蓄えもなくなりつつある。いちばん深刻なのは、市内で飲料水が手に入らなくなっていることだ。キーウから近いのに、なにも運ぶことができず、町は周囲から切り離されている。知人たちがヴォランティアで食料と必要なものを届けようと何度か試みたが、うまくいかなかった。砲撃がやまないのだ。当然、負傷者がいる。

物資を届けようとするヴォランティアは、きわめて危険な状況におかれている。彼らは兵士ではなく、武器を持っておらず、身を守る術がない。ウクライナ中で、つねに危険にさらされているのだ――オフティルカで、イルピンで、ボヤルカで、マリウポリで、そしてチェルニーヒウで。彼らは救護に向かい、人びとを捜索し、運び出す。私の知人たちは、3日間イルピンに通って認知症のおばあさんを探した。彼女がどこにいるのか、よくわからなかった。やまない砲撃のもとで通い続けたが、見つけることはできなかった。

1時間半の距離なのに、すべてがないのだ。水、暖房、食糧。どれも私たちのところにあるし、運ぶ手段もある。しかし、町が封鎖されていて届けることができない。

私の友人のチェルニーヒウの博物館の館長は、博物館の地下室で暮らしている。脱出することもできたのだが、彼はそこにとどまった。毎日、無事に生きている、と知らせてくれる。そして毎日、自分の町のためにできることをやっている。町に残った人たちの誰もがやっているように。今日の彼の書き込みはこんな具合だ。「水がないって? 雨水が私たちの水さ。ひと晩で50リットルたまったぞ!」

歴史あるチェルニーヒウとはこういう町だ。英雄たちに栄光あれ!

戦争が始まって35日目

私の両親は子ども時代に戦争を体験した。ふたりとも疎開を経験した。私は、戦争については、話を聞かされたり、本で読んだり、映画を観たりして知っているだけだ。両親は常々こう言っていた。戦争がないのは、なんてよいことだろうか、と。私は、自分が平和のなかで生きる最初の世代になるのだと思っていた。残念ながら、そうはならなかった。いま、私も自分の戦争を体験している。つまり、「戦争なき世代」になろうと努力しうるのは、ようやくこの戦争が終わったあとに生まれた人たちだということだ。

私は子ども時代をソ連で過ごした。当時よく掲げられていたスローガンの1つは、「平和のためのたたかい」だった。学校で私たちは絶え間なくこのことについて聞かされた。5月9日〔=第二次世界大戦の戦勝記念日〕になると、担任の数学の先生が勲章をつけて学校に来て驚いたのを覚えている。どうしてかって? 私たちのような子どもには、戦争は、なにかとても遠いことのように思われていたからだ。私たちのエウゲーニヤ・イワノーワ先生が前線にいたことを、とつぜん私たちは知ることになった。私たちは、彼女が志願兵として戦争に行ったことを知った。彼女の夫ヨシフ・ルヴォーヴィチも数学者で、やはり前線に赴いた。彼らが戦争中に知り合ったのか、いっしょに戦争に行ったのか、それはわからない。彼らはそのことについては語らなかった。しかし、戦勝記念日に彼らが勲章をつけて現れたとき、私たちは思わず知らずに口をつぐんで、先生の言うことにちゃんと従おうといく気持ちになった。私たちは、戦勝記念日は先生たちの個人的な祝日で、彼らの気持ちは自分たちにはよくわからないように感じた。

この人たちは、私たちに、平和を大事にするように教えた。私の祖父は、戦勝記念日に、子どもの私を「栄誉公園」に連れていった。祖父はカーネーションの小さな花束を買い、私たちは大通りを無名戦士の墓まで歩いた。祖父は花を手向けて、無言で立っていた。私はとても幼かったので、祝日なら楽しいはずだし、遊びにでかけてアイスクリームを食べるべきだと思っていた。私は退屈して祖父の手を引っぱったが、彼は黙って立ったままで、だいぶ時間が過ぎてから、私を連れて家に帰った。夕方に、祖父の友人たちがやって来た。祖父と友人たちは食卓を囲んで夕食をたべ、互いの話がいつまでも途切れることなく続いた。この日は私は食卓につくことを許されず、祖母がキッチンで私に夕食をたべさせた。彼らは子どもに戦争の話を聞かせたくなかったのだと、いまの私にはわかる。

もう大学時代のことだが、学部の事務室の横に、戦争でたたかった大学教員たちを記念するショーケースがあったのを覚えている。それを眺めるのが私は好きだった。そこには、古い写真と並んで、戦争が終わってから撮られた写真も飾ってあった。それを見ていると不思議な感じがした。私たちの高齢の教授は格好のよい志願兵で、やはり年のいった女性の教授もたくさんの勲章をつけていた。銃後にいた者には、あれらの勲章は与えられなかったはずなのに…

ソ連邦で戦争を生き抜いた人びとにとって、「全世界での平和のためのたたかい」は空虚なことばではなかったのだと、私は思う。彼らは戦争を経験し、平和がなにを意味するかを理解していたのだ。

大学で助教授をしていた私の友人は、私たちへの攻撃が始まってすぐに領土防衛隊に入隊して、ずっと任務についている。何者かに促されたのではなく、自分で入隊したのだ。歴史学部の学部長をしていたもう一人の親しい知人も軍隊に志願した。彼は歴史学の学位をもつ教授である。あらゆる規則に照らして彼は軍隊に入らないでもよかったのだが、それでも入隊した。彼らがどうしてこのように行動したのか、私にはわかるように思う。生徒や学生たちが前線にいるときに、教師であることは困難なことだ。その教え子たちもまた自分の意志で志願しているときに。

最近、私は、ロシアの多くの大学教員、学長、学部長、講座の主任たちが戦争を支持している文章を読んだ。彼らのリストにくまなく目をとおした。しかし、そこに署名している人たちの誰ひとりとして、私の知るかぎりでは、前線に赴いてはいない。そして、今後も赴くことはないと私は確信している。若者たちや、彼らと同世代の学生たち、博士課程の大学院生たちの身体がどんなふうに戦場でぐにゃぐにゃに折れ曲がり、砲弾や地雷でばらばらになっているか、戦争を支持すると署名した教師たちのなかで想像してみた者がいるとは、私は思わない。

ソ連邦には、社会的順応主義とでも呼ぶべき、もうひとつの伝統が存在した。党と政府の政策には支持をおおやけに表明するのが義務となっていた。それをしなければ、だれも指導的な地位にとどまることはできなかったであろう。ソ連時代の学長や学部長は、共産党の政策と一致した行動をすることを義務づけられていたし、それだけでなく、疑わしい者や正統な路線から外れた分子は注意深く監視する必要があった。こうした仕事を果たしていれば、どんな状況であっても彼を脅かすものはなにもなかった。たとえ戦争が勃発しても、彼は遠く離れた場所で安全な銃後に身をおいていられたはずなのだ。権力は、従順で誠実で献身的な召使いをつねに必要としていて、彼らに支えられていた。とりわけ大学の教壇にたつ召使いは大事な支えだった。彼らこそが自分たちの同類を育てるからである。

焼かれた図書館と暴行された少女

昨夜、チェルニーヒウで、コロレンコ記念州立図書館が爆撃された。屋根が破られ、窓が割れ、壁が崩れた。1917年の革命まで、近代的様式の美しいこの宮殿は、士族銀行の建物だった。この銀行は、ペテルブルクの建築家アレクサンドル・フォン・ホーヘンの設計で1910~13年に建設された。フォン・ホーヘンは、ペテルブルクでスヴォーロフ博物館、マチルダ・クシェシンスカヤ邸をはじめとして数多くの建築を設計した人物である。

3月11日、チェルニーヒウで、州立青年図書館の建物が砲撃によって破壊された。この建物も歴史的な宮殿で、かつては文化の保護者で収集家でもあったヴァシーリ・タルノウスキーの所有だった。1897年にタルノウスキーはその無二のコレクションをチェルニーヒウ県に寄贈し、それ以来、ここにウクライナ古代博物館がおかれてきた。

キーウ近郊のイヴァンキウでは、「解放者たち」は、これを好機とマリア・プリマチェンコ博物館の建物に火を放った。プリマチェンコは、ウクライナで最も知られた民衆芸術の代表者である。2009年には彼女の生誕100年が祝われ、ユネスコがこの年をプリマチェンコ年と定めた。

オフティルカの博物館、ハルキウの美術館、マリウポリの劇場、ポポウ宮廷博物館、数十の教会の建物、バビ・ヤールやドロビツキー・ヤールのホロコーストの記念碑…

これらは軍事施設ではない。そこに大砲やミサイルが隠してあったわけではない。そんなものはどこにもなかった。写真をみれば、はっきりわかる。写っているのは粉々になったショーケースや陳列棚であり、散乱した本である。

偶然でこんなことになったのか?

「解放者たち」の軍隊の指揮官たちは、まだ戦争を始める前に、兵士たちからすべての携帯電話をとりあげた。彼らはあんなに家に電話したがっているのに! だから彼らは占領した地域の住民たちから電話を奪い、それを使って電話をかけた。そのとき、ロシアにかけた電話はすべてウクライナの携帯電話サービスによって登録され記録されていることに気がついている者はほとんどいなかった。これらの記録はすでにおびただしい数にのぼり、その多くがインターネットで公開されている。そこから見えてくるのは、次のような絵柄だ。

まず、兵士による略奪行為が大規模に起こっている。文字どおり、すべてを彼らは略奪している。解放者は妻にうれしげにこう報告する。お前には毛皮のコートをおみやげにもって帰るぞ、俺は車のタイヤ、テレビ、ノートパソコン、ステレオ・コンポを手に入れた、云々。わが国では小さな店舗でも警備用のカメラがついているので、こうした行為は映像による記録が残されている。彼らは酒やお菓子やソーセージを箱ごと運び出す。しばしば途中の道でソーセージをかじり、酒をラッパ飲みする。

次に、暴行がおびただしく行われている。これも電話で語られていることだ。戦車兵が3人で16歳の少女を捕まえて、数日間代わるがわる乱暴をした。多くがこのような話だ。しかも彼らは電話でそれを話すだけでなく、自慢しているのだ! イルピンの奪還後、ウクライナ軍の兵士たちは、捕えられていた女性たちを救い出した。そのなかには、たくさんの16、17歳の少女が含まれていた。彼女たちには心理学者のサポートが必要だ。少女たちは人を怖がり、自分の両親さえ怖れている。

キーウ州で「解放者」のひとりが父親を撃ち殺して、幼い息子が見ているまえで母親を何度も暴行した。しかし、わが国の特殊部隊がこの化け物を発見した。この男はもう誰も暴行することはない。同様のことはマリウポリでも起こった。女性は死亡し、子どもはことばを失って、ほとんど何にも反応しなくなった。

これがいま見えている絵柄だ――破壊された図書館と、暴行されて死んだ女性たちだ。だから、平和は、残念ながら、期待できない。いま起こっていることに対して、平和はありえない――同じ絵柄は、遅かれ早かれ繰り返されるだろう。

ポーランド語への翻訳:prof. Magdalena Mączyńska

マクシム・レヴァダは1964年生まれの考古学者。キーウ大学卒、東欧における古代ローマと諸民族の移動の時代の専門家、ウクライナ文化相ボフダン・ストゥープカの元顧問。チェルニーヒウ文化や、ウクライナの民族移動期の遺物について数多くの論文を書いている。いわゆる「黒い考古学」(非合法の考古学)についても詳しい。劇作家オレクサンドル・レヴァダ(1909~95)の孫であり、社会学者で長年にわたってモスクワのレヴァダ・センター(独立した非政府の世論調査・社会研究機関)の所長を務めるユーリ・レヴァダの従兄弟でもある。

少年時代の懐かしい思い出から文章が始まるが、読み進むにつれて筆致は険しさを増してゆき、最後は戦慄すべき現実に対する激しい告発で終わる。この戦争が、物理的にも、生命的にも、身体的にも、心理的にも、物質文化的にも、精神文化的にも、歴史的にも、将来的にも、とり返しのつかない破壊をもたらしていることがわかり、打ちのめされる。

レヴァダの知人の学者たちは軍隊に志願したという。「生徒や学生たちが前線にいるときに、教師であることは困難なことだ。その教え子たちもまた自分の意志で志願しているときに」という箇所は、訳していて、言葉がざくざくと自分に突き刺さってくる気がした。
ソ連時代の大学人についての辛辣な指摘――「権力は、従順で誠実で献身的な召使いをつねに必要としていて、彼らに支えられていた。とりわけ大学の教壇にたつ召使いは大事な支えだった。彼らこそが自分たちの同類を育てるからである」――は、時制は過去形になっているが、もちろん過去の話ではなく、私たちが読むときには、ロシアだけの話でもないであろう。

おそらく同様のことがウクライナの各地で、いろいろな分野で、起こっているのだと思う。
チェルニーヒウのオーケストラの首席指揮者も軍に入って「指揮棒の代わりに銃を持」ってチェルニーヒウの街を守っているという記事を、さきほど日本の新聞で読んだばかりだ。
「音楽にできることは? ウクライナに20年の日本人指揮者の思い」
『毎日新聞』 2022年4月5日付 【小国綾子/オピニオングループ】
https://mainichi.jp/articles/20220403/k00/00m/040/122000c
このインタビューで、チェルニヒウ・フィルハーモニー交響楽団常任指揮者、高谷光信さんは、だいじなことをたくさん語っている。

「もしもロシア人作曲家の作品全体を忌避するような動きが起きた時は、全力であらがおうと決めている。「僕はスラブ音楽を愛する音楽家として、戦争は憎むが、ロシア人は憎まない。両国とも平和になってほしい。これからもロシア作品を指揮していく。チャイコフスキーやラフマニノフを。ウクライナで学んだスラブ音楽の魂を日本に伝えるのが僕の役割だから」」

「高谷さんにとって、「スラブ音楽の魂」とは何なのか。そう問うと、高谷さんはしばらく考えた後、こう答えた。
「自由、だと思います。音楽は自由であらねばならない。楽譜から喜びや悲しみを見いだし、楽譜に書かれたものを自由に越えていく。音楽は自由に空を飛び、滝を落ち、大地を広がる。特にウクライナの音楽にはそれを感じます。苦難の歴史の中、何度も言葉を奪われた。長く国家の独立がかなわなかった。そんな土地だから人々には『我々は自由の民である』という強い信念がある。自由を希求する思いが音楽にも息づいているんです」」

【SatK】

ポーランド版『ヴォーグ』4月号の表紙

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原画:Yelena Yemchuk 
編集長 Ina Lekiewicz「この号が通常の表紙でキオスクに並ぶことは、私にはとても想像できませんでした。私たちは、ウクライナの男女のアーティストたちにこの号の表紙の紙面を委ねることに決めました」

【SatK】

ベルリン・フィルの「自由と平和のためのコンサート」をめぐる議論

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「ベルリンの連帯コンサートは「侮辱だ」――駐ドイツ・ウクライナ大使アンドリー・メルニクは、シュタインマイヤー大統領の連帯コンサートへの招待に応じることを拒否した。このコンサートにはロシアの音楽家たちも参加していた。」
https://www.rp.pl/polityka/art35957801-ambasador-ukrainy-o-koncercie-solidarnosciowym-w-berlinie-afront

ドイツのシュタインマイヤー大統領の主催で、3月27日にベルビュー宮殿(ベルリン)でベルリン・フィルとロシアのピアニストのエフゲニー・キーシンによって、ウクライナとの連帯を表明するコンサートが行なわれた。
このコンサートの趣旨について、ベルリン・フィルのサイトでは「自由と自決の価値を共有する信念のもと、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、ドイツ、日本などの音楽家が、ウクライナ、ロシア、ポーランドの作曲家の作品を演奏します」と説明されている。
プログラムでは、ウクライナの現代作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの作品が最初と最後におかれ、さらにショパン、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチの作品が演奏された。
演奏者は、キーシンとベルリン・フィルのメンバー以外に、ロシアのバリトン歌手ロディオン・ポゴソフ、ベラルーシ出身のチェリスト、ウラジーミル・シンケヴィッチが参加した。ベルリン・フィルの首席指揮者でロシア出身のキリル・ペトレンコが指揮する予定だったが、急病のため沖澤のどかが当日のタクトをとった。
https://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/54336
(3月29日現在、コンサートの映像は編集中で「近日中にアップされます」とのこと。)

駐ドイツ・ウクライナ大使は、「ロシアの(!)ソリストばかりだ。(…)ウクライナ人はひとりもいない!(…)侮辱だ」とtweetし、コンサートを欠席した。


ドイツ大統領府報道官のツェルシュティン・ガムメリンは、ウクライナ大使の欠席についてTwitterで、ウクライナからベルリンに避難している音楽家もコンサートに参加していたことを指摘したうえで、次のように述べた。「このコンサートは、ウクライナのために共通の合図、その出身地にかかわらず平和を支持し戦争に反対するすべての人びとの合図を送る機会でした。私たちがともにこの合図を送ることができないことは残念です。」


これに対してウクライナ大使は、次のようにtweetを返した。
「やれやれ、どうしてドイツ連邦大統領にはそんなに認識することがむずかしいのか。ロシアの爆弾が夜も昼も都市に降り続け、何千もの市民が殺されているときに、われわれウクライナ人は「偉大なロシアの文化」を味わう気分にはなれないということを。以上。」

このコンサートの最初と最後に作品が演奏されたウクライナの作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフはキーウ出身で、戦争を逃れてベルリンに避難しており、この日も最前列に座って演奏を聴いていた。その点では、大統領報道官の指摘するとおり、このコンサートはウクライナの音楽界に敬意を表する構成になっていた。

たしかに、このコンサートでは、ソリストとしてロシアのピアニストと歌手、ベラルーシのチェリストが演奏し、曲目にロシア・ソ連の作曲家チャイコフスキーとショスタコーヴィチの作品が含まれていた。
しかし、駐独ウクライナ大使のtweet(とくに最初のもの)は、ロシアやベラルーシの音楽家がいま、ベルリンで、戦争に反対するコンサートに参加することの意味を十分に汲みとっていないように感じる。
ピアニストのエフゲニー・キーシンは、ロシア軍のウクライナ侵攻の3日後に、戦争に反対するメッセージをインスタグラムで公表している。


指揮をとる予定だったキリル・ペトレンコも、「プーチンの悪辣なウクライナへの攻撃」を非難する声明をベルリン・フィルの公式サイトで発表していた。
https://www.berliner-philharmoniker.de/en/news/detail/statement-on-russian-invasion-of-ukraine/
2人とも、祖国ロシアで演奏できなくなることを覚悟しながら、これらのメッセージを公表したはずである。

以上のことをすべて認識したうえで、駐独ウクライナ大使の2度目のtweetの「ロシアの爆弾が夜も昼も都市に降り続け、何千もの市民が殺されているときに、われわれウクライナ人は「偉大なロシアの文化」を味わう気分にはなれない」という言葉には、たんなる言い訳ではない(たぶん本人にもどうしようもない)感情が表れているとも思う。人と人のあいだを分断し、越えられない溝を生みだす戦争は、ほんとうに罪深い。

【SatK】

空襲警報のサイレンが鳴り響くリヴィウの街頭で弾き続けるピアニスト

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曲はハンス・ジマーの “Time”。ロンドンで行なわれたジマーのコンサートで、この映像が流された。

ポーランドの画家アンジェイ・ポンゴフスキによるウクライナ連帯のポスター

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戦争開始から1か月、英語で世界に向けて「ウクライナのシンボルをたずさえて職場や学校や大学へ」と訴えたゼレンシキー大統領のメッセージに応えて制作された。


より画素数の多いポスターのファイルはこちら ↓ からダウンロードできる。
https://static.im-g.pl/im/5/28260/m28260805,PLAKAT-NIEDZWIEDZ-I-JASKOLKA-A3.pdf

【SatK】

爆撃から逃れて避難したハルキウの地下鉄の駅でウクライナ国歌を歌う子どもたち

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ギターに合わせておずおずと子どもたちが歌い出すと、大人たちが加わっていき、最後は大合唱になる。

【SatK】

“Dead But Pretty”

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ロシアの音楽ユニットIC3PEAKによるウクライナ戦争反対の動画クリップ “Dead But Pretty”

死んだ兵士の墓地、OMON(デモ・暴動の鎮圧を任務とするロシア内務省直属の特殊部隊)の隊員に反乱をうながすような場面、同性愛など、現体制の指導者の逆鱗に触れる表現で溢れている。このクリップは「ガゼタ・ヴィボルチャ」紙で詳しく紹介されている。
https://wyborcza.pl/7,113768,28241853,kolejny-mocny-antywojenny-klip-rosyjskiej-gwiazdy-na-moim.html

チェコ、プラハの街角のストリート・アート

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チェコ、プラハの街角のストリート・アート
https://streetartutopia.com/2022/03/19/ukraine-is-now-fighting-to-protect-their-future-and-their-freedom-by-chemis-in-prague/