なぜロシア人は「ナチスのウクライナ」のトップにユダヤ人が立っているという語りに矛盾を感じないのか

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ロシアの劇作家アルトゥル・ソロモーノフの「ガゼタ・ヴィボルチャ」への寄稿。

「なぜロシア人は「ナチスのウクライナ」のトップにユダヤ人が立っているという語りに矛盾を感じないのか」
2022年3月13日付

ここ数日、キーウやオデーサの友人たちに電話をかけ続けている。おそらく私の人生で最も困難な会話だ… ハルキウの知人たちは、もう家がない、通りも広場もない、子どもたちの遊び場もない、と語った… キーウの女友だちは、警報のサイレンが鳴り続けて、いつ何時でもシェルターに急いで逃げなければならない、昼夜を問わず命の危険にさらされてもう気が狂いそう、と言った… 結局、彼女はウクライナから避難した。そんなことは彼女には想像もできないことだったし、望んでもいないことだったのだが…

しかし、ウクライナ人たちは、ただ自分たちの意志で国をつくりたかっただけなのだ! ところが、テレビで私たちに繰り返し伝えられるのは、ロシアは誰かを助けようとして動いたのだ、この「軍事作戦」は、ロシア語を話すウクライナのロシア人への、われわれの愛の結果なのだ、ということだ。ああ、なんという他民族へのロシアの「愛」! そのなかで私たちの隣人も私たち自身も焼き尽くされてしまわなければよいのだが。私がこんなことを言うのは、この戦争がロシアにとって、あらゆる意味で完全に破壊的なものであると考えているからだ。道徳的にも、政治的にも、経済的にも。

「国家は死体を必要とするのだ! 死者を必要とするのだ!」

この戦争に私は、豊かでブルジョワ的なモスクワで遭遇した――もちろん、戦闘が始まったという悪夢のようなニュースを聞いても、首都の顔つきは何ひとつ変化しなかった。しかし、すでに最初の日に、恐怖というよりも、もうこれまでのような日々は二度と戻ってこないだろう、という感覚が漂いはじめた。加えて、これからは悪くなるばかりだろう、という感覚も。

偶然の成り行きで、この戦争は、私の戯曲「われわれはスターリンをどう葬ったか」が独立系のTeatr.doc.で初演を迎える日と重なっていた。その関係で、この間に私が会話をしたのは俳優たちと監督と劇場支配人に限られていて、この戦争への反応も、もっぱらいちばん近いところにいる彼らの様子からしか私には判断できない。彼らは全員ショックを受け、ふさぎこみ、混乱していた。こんなときに初演を舞台にかけるのは道徳的に正しいことなのか? でもだからと言って、上演を中止するのは降伏することになるのではないか?――この作品は、全体主義が生まれて、そこから逃れる余地がなくなってしまう状況を描いているのだから。

私たちは上演することにした。初日の夜8時、観客が集まり始めた。それは、これまでに私が目にしたなかで、最も不幸で混乱した観客だった。演劇に出かけるためにやっとのことでベッドから起き上がったんだよ、と知人が私に言った。招待した人たちの多くが、ごめん、劇場に出かける元気がないんだ、と電話してきた。ロビーでの会話ももっぱら戦争のことで、恥ずかしい、罪悪感と無力感で苦しい、と打ち明ける人が大勢いた。そして当然のことながら、なんという、ありえないような「血塗られた」偶然だろう、こんなときにスターリニズムの復活についての作品の初日を迎えるなんて、という話になった…

上演が終わったとき、観客が俳優たちのところに来て、「国家は死体を必要とするのだ! 死者を必要とするのだ! 人間なんて何の価値もない、国家がすべてなのだ!」という科白が舞台から聞こえてきたときの衝撃を語った。リハーサルを始めたときには、この科白が作品の核心であったわけではないのだが、生活の現実が力点の置きどころを変えてしまったのだ。

家に帰ってから、私はテレビをつけて国営放送にチャンネルを合わせた。番組では「ウクライナのナチス主義者たち」と「ロシア軍の勝利」について熱く語っていた。私はテレビのスイッチを切った。まるで1941年のニュースを観ているようだったし、ロシアがナチスドイツと死闘を演じているかのようだったから…

スターリンはいまなお葬られていない

総じて数年来、ロシアにいて、私は、超現実主義的な映画のなかで生きているような感じがしていた。論理と理性は不可逆的に根絶へと向かっていき、それはいまや無用なものとして完全に破棄されてしまったのだ。

だから、「テレビの視聴者たち」は、ユダヤ人が「ナチスのウクライナ」のトップに立っていることにも、わが国の権力が防衛の目的で攻撃していることにも、平和のために戦争していることにも、幸福のために破壊していることにも、まったく矛盾を感じないのである。彼らは、「戦争反対」(”no war”)という言葉が、現代ロシアではほとんど過激派のスローガンのようにみなされることにも問題を感じない。最近、雪に描かれた「戦争反対」を警察官が長靴で踏みつけている動画を見たばかりだ。しかし同時に、私たちは確かに平和を支持しているし、平和のためにあらゆることをやっているのだ。なにしろ、「軍事作戦」が始まったときに、目くらましの言葉が並べられたではないか――ナチズム、ファシズム、勝利、と。最近10年間に大衆の意識を支配してきた、あれらの言葉が。

こうしたことをロシアの外から理解することは、おそらくとてもむずかしい。現代ロシアにとってスターリニズムが現実の問題であることや、スターリンがいまなお葬られていないことが外からは理解しにくいのと同様に。いま一度、私たちの精神のなかで、犯罪的な数学が蘇えっているのだ。左辺には、何百万の無実のまま殺された人びと、何百万の自由を奪われ、搾取され、卑しめられた人びと。右辺には、大規模な建設、戦争の勝利、強力な国家。この悪魔的な論理学の創始者は、いまやますます現実化しつつある。

しかし、ここでの問題は、じつはスターリニズムでさえなく、いまロシアで、イデオロギーの問題についてはきわめて融通無碍で、それゆえに限りなく内的な矛盾を抱えた超帝国が出現しつつあることである。そこでは、過去の全体が等しく理想化される。ツァーリの過去もソ連の過去も、いにしえのルーシの時代も最近の時代も、正教のロシアも無神論のロシアも。現代ロシアは、すべての歴史的段階と過去のシンボルの集合体なのであり、そこではスターリンとニコライ2世、レーニンとエカチェリーナ2世、ツァーリとその暗殺者、「聖なるルーシ」とその破壊者が統一されなければならない。

こういうやり方は、まちがいなく、私たちの精神の健康を損なっている。共産主義については――もちろん誰一人としてそのイデオロギーを擁護する者はもはやいない。「共産党」は、いまや偉大なるフェイクの一部である。共産主義的な過去のうち必要とされるのは、国の強勢と神話的な統一の理念、そして諸民族を兄弟とみなす思想だけである。

プロパガンダを注入され操作されたロシア国民の巨大な部分が、最近20年間のあいだに、ノスタルジックに過去に憧れるようになり、過去をとり戻そうと夢見るようになった。これは喜劇的でもあり、悲劇的でもあった。若者たちさえもが、自分では生きたことのない時代に戻りたいと思い始めたからである。もちろん皆が皆ではないとしても、多くのひとがそう感じだしたのだ。そしていま、私たちは、この集団的ノスタルジーの恐るべき結果を目にしている。そして、このノスタルジーが無神論的なソヴィエト社会主義共和国連邦と聖なるルーシを同時に含んでいることに当惑しない者はいないだろう。

しかし、公式の次元でかくも多くが語られるロシアの宗教的な再生もまた、幻影である。あるいはフェイクであると言ってもよい。これもまた、現実のなかに支えをもたないもう一つの巨大な観念である。私はロシアを正教の国とは呼ぶまい。それは実態ではなく宣言に過ぎない。正教徒だと自称する人たちの多くは、主な祭日に教会に行くだけで、ロシア正教会の歴史も、それどころか聖書に書かれている物語も知らず、新約聖書を間違って引用するのがせいぜいである。「正教徒」を自称したいという欲望は、歴史と文化に自分も属していると表現したり、皆と共有する一種のコードを作ろうとしたりする姿勢のあらわれである。そして、正教会は権力がやろうとすることはすべて絶対的に支持するので、若者たちも知識人も正教会がクレムリンの支部であることを認めている。このことは、もちろん正教会の信用度に影響する。

この幻影とフェイクの海のなかで、現実としての実質を求めて権力と対等にわたり合うことができるものが、ただ一つだけある。それは芸術だ。裁判も、報道も、社会組織も、政党も、議会も、すべてフィクションだ。しかし権力は現実以上のもの、恐ろしいものであり、悪夢のように本ものだ。芸術も同じである。

だからロシアでは、人びとはいつも芸術に、とりわけ劇場に、偉大な思想や強い感情を期待する。それどころか、本当のところは国でなにが起こっているのか、どこに悪があるのか、そして善はどこにあるのかを理解するために芸術が手助けしてくれることを望んでいるのだ。だからロシアでは、芸術はじっさい特別な役割を、使命とさえ呼べる役割を果たしているのだ。芸術にたずさわることは危険だが(あなたが権力と手を結ぶのでないかぎり)、しかし同時にあなたは、あなたの仕事に意味があることを実感する。

このところ、遠くで起こっている騒ぎの反響が私の耳にも伝わってくる。どこかでロシアの劇場やオーケストラの公演が中止されたとか、チェーホフの劇の上演がとり止めになったとか、チャイコフスキーが演奏されなくなったとか、それで私たちの文化にかかわる多くの関係者が仏頂面をしているとか。いまはそんなことで気を悪くしているときではないと私は思う――チェーホフもチャイコフスキーもいなくなることはないし、時が過ぎれば演目に復帰して、劇場やコンサートホールに戻ってくるだろう。

そして、私たちもいなくなることはない。私たちは、文化をとおして自分たちの手でこの破局を防ぐことはできなかった。そしてこの破局が起こってしまったいまこそ、私たちに対する嫌がらせに気落ちしている場合ではないのだ。妄想とフェイクと偏執から、幻覚との闘いから生み出されたこの悪夢のなかで私たち全員が燃え尽きてしまうのでないとすれば、いずれ戦争が終わる時がくる。それはもちろんたいへん厳しいものになるだろうが、おそらくはロシアにとっての再生のチャンスとなる――私たちの歴史の最も醜い側面とのつながりを完全にたち切り、それらを理想化することをやめ、暴力と流血を地政学的に正当化することをせず、刑吏から英雄を生みだすことをしないために。目を覚まし、正常化し、隣り合った国や民族を自らの「愛」によって迫害することをやめるために。自らの境界のなかで自分自身を感じるようになるために――物理的な意味でも、形而上学的な意味でも。

  • ロシア語からポーランド語への翻訳者:Agnieszka Lubomira Piotrowska
  • 小見出しは「ガゼタ・ヴィボルチャ」の編集部による。

https://wyborcza.pl/7,112395,28214404,wojna-zastala-mnie-w-burzuazyjnej-moskwie-od-lat-mialem-wrazenie.html#S.DT-K.C-B.3-L.1.maly

【SatK】