自民党改憲草案を読む-いかなる「立憲主義」なのか?

【目次】

2.立憲主義と民主主義の相克

次に、それでは憲法や法律とは誰が作り、だれが守るべきものなのか、について確認しておきましょう。レジュメには「名宛て人は誰か」ということを書きました。そもそも憲法や、法律と言われるものは、国民や公務員(権力者・権力機関)と、いったいどういう関係をもった構造になっているんでしょうか?

端的に言えば、憲法とは国民が作ったものであり、権力を委ねた公務員(権力者・権力機関)に守らせ、その規定に違反するような権力行使を行ってはならないということを規制するものです。ですから憲法の制定権者は、国民です。憲法を作る権力、それを憲法制定権力と言いますが、その権力をもつのは主権者である国民です。もちろん形式的には、現在の日本国憲法は、第92回帝国議会において大日本帝国憲法の第73条に従って改正された形式を取っていますが、日本国憲法の前文では「日本国民は、…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と明確に規定しています。形式は改正でも、主権者が天皇から国民に変わったわけですから、全く新たな憲法が制定されたとも言えるわけです。この問題についてはポツダム宣言を受諾した1945年8月の段階で、既に主権者の交代という革命が起きていたという「8月革命説」なども唱えられていますが、私は憲法案を審議した過程を重視すべきではないかと思います。

現行憲法

前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

すなわち、日本国憲法は、1945年12月に改正された衆議院議員選挙法によって満20才以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになりましたが、それによって選挙された女性39人を含む議会で審議されて制定された憲法であることが取りも直さず国民が憲法制定権力として機能したと理解できるからです。

そして、この憲法に従って法律や政令などの法令は作られます。それを守ることが行政府や司法府には課せられます。国民はその法律を作り、実施する権力を担う公務員を選挙・選定・罷免する権利が憲法第15条によって保障されています。他方で、国民は公務員を選定して憲法に従って法令を作り、実施することを信任したことによって、憲法に従って作られた法令については守る義務を負うことになります。

現行憲法

第15条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

このように憲法を守るべき名宛て人は公務員(権力者・権力機関)であり、憲法に従った法令を守るべき名宛て人は国民ということになります。ですから、国民が守らなければならないのは憲法でなくて、法律です。権力機関や公務員が守るのが憲法であり、逆に言いますと、憲法を権力者に守らせる責務が国民にはあるということです。そのことは、きちんと憲法に書いてあるのですが、この点は自民党改憲草案との対比で、改めて読んでいきましょう。

ここでは、立憲主義とは国民が作った憲法を公務員(権力者・権力機関)に守らせることであるというポイントを押さえておきたいと思います。

このように立憲主義の原義を押さえた上で、現在の私たちが置かれている状況を考えてみますと、立憲主義の危機、あるいは民主主義の危機ということが言われています。
SEALDsやティーンズ・ソウルなどの学生さんたちも、率直にそういう危機感を表明され、「民主主義とは何だ?」と問い直す試みを実践されています。

ただ、そもそも立憲主義と民主主義は同じものなのでしょうか、違うものなのでしょうか?あるいは、二つの主義に衝突はないのでしょうか?私は東京の研究者がいち早く結成された「立憲デモクラシーの会」という組織の呼びかけ人の末席を汚しておりますが、私自身はこの名称には違和感があります。少なくとも私の考える限りでは、立憲主義と民主主義は必ずしも常に相即的に同じ方向性はではありません。むしろ逆に、民主主義の問題点に歯止めをかけるのが立憲主義であることを重視すべきではないかと思っています。

何を強調したいのかと言えば、再度、立憲主義とは何かを違う方向から見ておく必要があります。これも良く知られているようになりましたが、立憲主義の定義としては、「権利の保障が確保されず権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」というフランスの人権宣言(Declaration des Droits de l’Homme et du Citoyen.)の第16条が重要です。 もちろん、この「人と市民の権利に関する宣言」に、実は女性は入っていないという問題があることは確認しておかなければならないのですが、それはともかく、ここで重視されていることは「人権の保障」と「権力分立」が憲法には必ず規定されていなければならないということです。つまり、憲法を持つ社会においては、人権の保障と、権力の分立とを明確に決めておかなければならないし、この2つの要件を備えた憲法が、立憲主義の憲法であると表明しているわけです。

私たちは小学校以来、権力分立あるいは三権分立について学んできました。司法、立法、行政、この3つの権力が分立してチェック・アンド・バランスを取るということですね。さらに、日本国憲法の審議の過程では、元来は一院制となっていたものを参議院を設けて二つの議院が相互にチェックをしあう形にして、極端な議論にブレーキをかける仕組みと改めています。ただ、本来は「良識の府」と称された参議院も政党・会派による「数の論理」が支配することになって「衆議院のカーボンコピー」としか機能しえなくなりつつありますが、今回の選挙で参議院の機能が回復することを祈るばかりです。

しかし、私は権力分立は、本当の意味では三権の分立だけでは不十分であり、もう一つの権力分立を加えなければならないように思っています。それは何かというと、中央政府と地方政府の分立です。日本国憲法の第8章「地方自治」は、この権力分立の精神に立っているからこそ「自治」なのであって、中央政府が地方政府を規制するというのは、「官治」ではあって決して「自治」ではないはずです。特に憲法第95条では国権の最高機関である国会に対しても権力の分立を要求しています。この点でも、自民党改憲草案は地方政府による自治を財政権などの制限によって大きく規制するものとなっています。

現行憲法

第95条
 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

このように権力分立と人権保障そして地方自治を保障するのが、立憲主義であるとしますと、先走って言えば自民党改憲草案で規定された「緊急事態条項」は、この3つを全て停止するということに他なりません。人権の保障と権力分立と地方分権を全部停止し、それらを内閣総理大臣が全て掌握するというのが、「緊急事態条項」の趣旨です。そうであるとすれば、まさしく「立憲主義の停止」が新たに憲法に規定されようとしているわけです。

自民党改憲草案

第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。


第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。

それに対しては、民主主義が機能していれば、「立憲主義の停止」という事態は防げるのではないかという反論も想定されます。選挙によって選ばれた国会議員が、もし間違った決定をしたとすれば、次の選挙で当選させなければ良いし、そういう事態を想定して国会議員にも自制力が働くシステムが民主主義である以上、それを信頼するしかないという議論です。もちろん民主主義はそのように望ましい方向で機能すれば、それに越したことはありません。しかし、議会制民主主義というのは言葉を変えて言いますと、ある意味で「期間を区切られた独裁」にもつながります。なぜなら、議院内閣制というのは国会で多数を取った党派が内閣を組織するというものです。戦前は政府の超然主義に対して、議会の多数派である政党が内閣を組織する政党内閣制が「憲政の常道」として追求されました。しかし、国権の最高機関である国会において、その多数派が行政府の長を決め、内閣を組織するということは、すでにこの段階で立法権と行政権の2権は融合していることになります。実際、国会に提出される法案の9割近くが内閣提出法案(閣法)であるというのが常態です。

それに対して、国会の違憲立法や行政府の違法行為を裁いて、国民の権利救済を図るべき司法権はどうなのでしょうか。最高裁判所の裁判官は内閣が任命しますし、下級裁判所の裁判官も最高裁の指名した名簿によって内閣が任命します。現在の憲法第79条では、最高裁判所の裁判官は任命後に初めて行われる衆議院選挙で国民審査に付し、その10年後にもさらに審査を受けることになっていますが、今度の自民党改憲草案では、この審査制もなくなることになります。

現行憲法

第79条
1 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

そして検察は、行政府である法務省の下にあって、検察官一体主義を取っておりますから、すべての検察庁の職員は法務省の官僚でもある検事総長の指揮監督に従うことになります。そこで、何が起こっているか、国民の目から見れば明らかに政治資金を受け取って口利きをしているはずの甘利事件が不起訴になり、自ら潔白を証明するはずだった甘利氏も国会開会中は一切出席せず、国会が閉会するやいなや政治活動を再開したそうです。検察が法務省の指揮下にある以上、政権に対して痛手になるようなものは起訴しないということも決定できます。あるいは法務大臣によって指揮権を発動することができます。他方、政府の意思や方針として行われるといわれる刑事事件の捜査、いわゆる「国策捜査」によって小沢一郎氏などが政治力を奪われていったことも記憶に新しいところです。

以上のように、立法権も司法権も行政権に吸収されてしまっているというのが実態です。つまり三権分立でなくて、三権合一というのが現在の議院内閣制の大きな兆候として現れてきているのです。一般に現代国家においては「行政国家化」が進行すると言われていますが、行政権への権力集中は、与党内における安倍一強体制を更に強化していきます。

こうした事態が現れてきた背後には、衆議院選挙における小選挙区比例代表並立制という選挙制度の問題があります。特に問題なのは小選挙区制です。この選挙制度においては、一票でも多く獲得した候補者が当選します。そのため投票率が50%強程度で推移している中で、過半数を取れば当選するわけですから、事実上は有権者の25%以上を取れば当選することになります。実際、2014年12月の選挙で自民党は有効得票は48%と半分以下だったにもかかわらず、議席占有率では76%に達しています。そして、投票率が過去最低の52.66%にとどまったことを考えれば、有権者総数の25%程度で8割近い議席を得ていることになります。逆に言えば、25%程度の国民の声が、衆議院に行けば76%の声に拡大されるわけです。ちなみに、この衆議院議員選挙での「死票」は全体の48%にあたる2540万票でした。つまり、2450万人の意見は議席に反映されなかったわけです。

同じ問題は、参議院における32の一人区でも生じます。中選挙区制においては、よく指摘されるように、同じ政党から複数の候補者が出て、しのぎあい、そこに派閥間のチェック・アンド・バランスが働く契機があったのですが、小選挙区制と政党助成金の下では党の執行部とりわけ党の総裁の意向が決定的となり、誰もがその顔色をうかがって異論を出さないことが当然視されるようになります。選挙区民の意見ではなく、総裁という上しか見ることができない「ヒラメ議員」が、党議拘束に従って動くだけですから、まさに明治時代に中江兆民が国会を指して「無血虫の陳列場」と呼んだような状況が再現されています。

ここから生じてきたことが、「多数者の専制」という問題です。私たちは小学校以来、多数決においては、少数意見を尊重することがなければならないということを習ってきたはずなのですが、果たしてそういう多数決が機能しているでしょうか。実際に行われているのは、数の力で押し切るという「数の政治」です。専制というのは、必ずしも少数者が行うものではありません。そのため議会制民主主義は「期限を区切った独裁」になる、あるいは風のような民意を背景にして白紙委任されたのだとして専制が「決められる政治」として自画自賛されることになってしまう事態が現れているわけです。

さらに、こうした「多数者の専制」は、必然的に寡頭支配になります。寡頭支配というのは少数の人が組織を支配するということです。民主主義は多数者の支配として多数の人の意志が集約されていくのかといえば、そうではなく、むしろ少数のトップだけが決定権限を独占するようなシステムができあがっていくという経験則が見いだせるのです。これはロバート・ミヒェルスという政党政治学の研究者が指摘したことですが、現在の安倍内閣にその特質が現れています。内閣府に人事局も設けましたし、それからSNC、国家安全保障局も設けたわけです。行政府の人事も安全保障政策も秘密保護指定なども、内閣の少数者によって決定するようになってしまっています。

問題はここにあります。すなわち、民主主義は国民の多数の声を反映しているという前提に立っていますが、想定通りに機能しないことがあります。そして、民主主義が「多数者の専制」、そして「寡頭支配の鉄則」になるとき、それを規制するのは何か?それが立憲主義に他なりません。民主主義の暴走や迷走をチェックするのが立憲主義である。その局面において、民主主義と立憲主義は対立することになります。私が民主主義と立憲主義とが必ずしも同時に成立せず、時に拮抗関係に立つと考えるのは、そのためです。

もちろん、多数の意見によって政策が決定されることは民主主義の一つの前提ですから、全否定することはできません。しかし、国会議員はあくまでも公約を掲げて、その是非の診断を国民が選挙で決したわけですから、すべてを強制的に代表するわけではないとしても、選挙公約(マニュフェスト)を実行する責務を負っているはずです。

しかし、近年の選挙を振り返ってみて、果たして公約がどれほど守られてきたのでしょうか?たとえば、今回の参議院選挙に関する自民党の公約について、ホームページを見ますと「自民党がみなさんにお約束する公約を掲載しています。自民党では、実現できる約束こそが、本当の公約と考えます」とあります。我が目を疑うしかないのですが、当然に冗談で言っているわけでなくて本気のつもりなのでしょう。言葉というものに、何ら信頼を置くことのできない社会、無責任な言論を吐いても何ら痛痒を感じない「無痛社会」を政治が率先して創り出しているのです。

そして、たとえば自民党の公約集では、御覧のように「この道を。力強く、前へ」というスローガンから始まって、非常に細かな字で、26頁にわたって公約が並べられています。しかし、直近の選挙での公約のうちで手つかずであることは何かなどは書かれていません。そして、安倍首相が在任中に実現したいと今年の国会期間中にも断言していた憲法改正については、本当に最後の最後のところで「国民合意の上に憲法改正」という項目で「憲法審査会における議論を進め、各党との連携を図り、あわせて国民の合意形成に努め、憲法改正を目指します。」という当たり障りのない文言が並んでいるだけです。憲法のどこを、どのように変えるのかについては、一切触れられていません。

しかし、私たちはこうした事態に既視感を覚えます。まず、2012年11月の民主党と自民党との党首討論において、「来年の通常国会において、私たちは既に、私たちの選挙公約において、定数の削減と選挙制度の改正を行っていく、こう約束をしています。今この場で、そのことをしっかりとやっていく、約束しますよ」とあれほど約束しますと力説したにも拘わらず、2013年の通常国会までに衆院議員定数を削減する確約は、いとも簡単に反故にされてしまいました。その代わりに何を実現したか?特定秘密保護法でした。これを政策課題にすると伝えられていた有権者は、果たしてどこにいたのでしょうか。

そして2014年12月の衆議院選挙で安倍首相は、「来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています。」とこれまた大見得を切って、公約をしたはずです。そして、この選挙はアベノミクスに対する信任を問う選挙であることを前面に押し出して、勝利を得ました。しかし、選挙が終わって何事にも優先して推し進められたのは、違憲の声が高かった安全保障法案の成立をまずアメリカ議会で約束し、その後で法案が国民に示されるという本末転倒の手続きで強硬されました。それに対して批判が噴出すると、自分は選挙中でも憲法改正について演説で触れていたから公約違反ではないとの強弁がなされました。

そして、6月になって国会が閉会されるや否や、消費税増税については「異なった新しい判断」をするに至ったとして、再延期を決定したと表明しました。「はっきりとそう断言する」「景気判断条項を付すことなく確実に実施する」「私はそう決意している」と言った力み返った言葉は、「新しい判断」という言葉でいとも簡単に水に流されて終わり、ということなのでしょうか? これが普通の社会人であったら、どうでしょうか?その人の言動を信じ続けることが許されるでしょうか? 行政の最高責任者だから許されるということが常習化していく国政には、いかなる未来が待ち受けているのか、甚だ心凍る思いを禁じ得ません。

おそらく、今度の参議院選挙では、憲法改正は争点化されないでしょう。しかし、憲法改正支持派が3分の2を占めれば、改憲が動き出すのでしょう。そして、その時は「いや、自民党の公約の中で憲法改正を目指すと書いてありましたから、有権者に御約束した公約を実行するだけです」ということになるでしょう。この4年以上にわたって「アベノミクスしか道はない」、その信認を問うというパターンの選挙が繰り返されてきましたが、本当に三本の矢はどこに飛んでいったのか、知りようもありませんが、そろそろ安倍選挙戦略のカラクリに目くらましされ、翻弄されてはいないかを見きわめる時にきているのではないでしょうか?

マルクスは「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と言いましたが、今度の三度目は何でしょうか? 惨劇でしょうか、破滅でしょうか? 分かりませんが同じことが繰り返されて、「二度あることは三度ある」となるのでしょうか?

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