立て看問題に対する本会の見解

立て看問題に対する本会の見解

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自由と平和のための京大有志の会では、昨日、東大路沿いの西部講堂前の広場にタレカン(有志の会の声明書の「生命は、誰かの持ち駒ではない」というメッセージをあしらったタペストリー)を吊り下げました。

このたびの立て看規制はさしあたり京都大学を舞台とした問題となっていますが、街と大学との関係をどのようなものとしていくのか、街中の公共のスペースに対する行政の規制をどのように考えるべきなのかなど、広がりをもつ問題と考えています。

以下、長文となりますが、法律や条令の内容にわけいりながら、この問題について考えてみたいと思います。

京都大学当局による「京都大学立看板規程」の前提には京都市の「京都市屋外広告物に関する条例」(以下、京都市条例)や「京の景観ガイドライン」があり、京都市条例の前提には国レベルの「屋外広告物法」があります。

それならば、京都大学当局による立て看規制は、法律と条令にのっとった措置として適正なのでしょうか。

法律と条令それ自体にはらまれる問題(論点①、論点②)と、京都大学当局の対応(論点③)にはらまれる問題にわけて考えたいと思います。

  • 論点①:営利を目的とする広告物と、非営利の活動のための掲示物を一緒くたにして規制しようとしていること。
  • 論点②:なにが「価値のある景観」であるかという問題と、なにが「公衆に危害を及ぼすおそれがある」のかという問題を混同していること。
  • 論点③:京都大学当局による立て看規制は、京都市条例をそのまま適用したものですらなく、むしろ学生らによる自治的活動の管理強化をねらいとしていると思われること。


論点①について。

屋外広告物法では、「1.屋外で」、「2.常時又は一定の期間継続して」、「3.公衆に表示される」ものを「屋外広告物」として、規制の対象としています。京都市による条例でもこの定義を踏襲しています。つまり、そこには、コンビニの看板のような営利目的の広告物も、営利とは無縁のサークル立て看もどちらも含まれることになります。

ですが、そもそも立て看は「広告物」なのでしょうか。「広告」には、「広く世の中に知らせること」という意味もありますが、一般的には「人々に関心を持たせ、購入させるために、有料の媒体を用いて商品の宣伝をすること」という意味で用いられます(『大辞林』)。京都市条例で屋外広告物の許可を申請する際の「手数料」を定めているのも、営利を目的とする「広告物」を基本的に想定しているからこそでしょう。

非営利の掲示物(ここでは「広告物」という呼称が適切ではないという考えから掲示物と呼ぶことにします)まで一緒くたにして規制してしまってよいのでしょうか。

京都市条例でも、営利と非営利の違いをまったく無視しているわけではありません。次のような場合には許可申請は不要、つまり自由に掲示してよいと定めています(第9条第1項第5号)。

「団体(営利を目的とするものを除く)又は個人が政治活動,労働組合活動,人権擁護活動,宗教活動その他の活動(営利を目的とするものを除く)のために表示する屋外広告物で,第 11 条第 1 項各号(第 6 号を除く)に掲げる基準に適合しているもの」

この規定は、営利か非営利かという違いにより、基準が異なっても当然という認識をあらわします。掲示物を設置する学生のサークル、あるいは職員組合や教職員の親睦団体の活動は概して非営利の活動ですから、この規定の前半部分に該当するとみることができます。

ただし、後半部分には「第 11 条第 1 項各号に掲げる基準に適合しているもの」という但し書きがつけられています。しかも、この各号には、それぞれの地域区画ごとに定められた「広告物」の面積にかかわる規定まで含まれています(たとえば京大周辺の東大路沿いの「第二種区域」場合には1面あたり2平方メートルまで、合計の総面積は5平方メートル以内と定めています。そのあまりにも狭小な面積は一般的な店舗を想定したものであり、大学の広大なキャンパスは想定外なのではと思えます)。

街中の、公共のスペースに団体や個人が掲げる掲示物の適否を、行政がいちいち判断しようとする仕組みは「表現の自由」を不当に規制するものではないか。行政の規制の範囲は街中の人びとに物理的な危害を与えるおそれがある場合や、ヘイトスピーチのように精神的に人びとを傷つける場合に限定されるべきではないか。そもそも「1.屋外で」「2.常時又は一定の期間継続して」「3.公衆に表示されるもの」の対象範囲は、あまりにも広すぎるのではないか。そのような疑問が次々と浮かんできます。

実際、屋外広告物法では「この法律及びこの法律の規定に基づく条例の適用に当たつては、国民の政治活動の自由その他国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならない」(第29条)と定めています。京都市の条例は、この法律、さらに日本国憲法「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(第21条)と定めた基本的人権を侵害しているおそれがあります。少なくとも、京都市の条例はこれらの上位規定にしたがって適切に解釈され、運用される必要があります。

論点②について。

非営利の掲示物に適用されるという京都市条例第11条第1項は、多岐にわたっている上に、性格の異なる基準を含んでしまっています。たとえば、「第4条及び第5条の規定に違反していないこと」(第11条第1項第1号)と規定しています。参照先である第4条では、次のような「屋外広告物」を設置してはならないと定めています。

(1) 汚損,退色,はく離又は破損により都市の景観に著しい悪影響を及ぼすもの
(2) 破損,落下,倒壊等により公衆に危害を及ぼすおそれがあるもの

「汚損、退色」などにより「景観」に「悪影響」を及ぼすか否かという判断は、なにが「すぐれた景観」「価値ある景観」であるかという評価にかかわります。こうした問題は、「破損,落下,倒壊」など危険性にかかわる次元の問題は性格の異なることがらです。屋外広告物法に基づいた条例は多くの自治体で制定されていますが、京都市条例は特にこの「景観」という基準を強調しており、「位置及び形態が都市の景観に悪影響を及ぼさないこと」(第11条第1項第2号)、「意匠がけばけばしい色彩又は過度の装飾でないこと」(同第4号)とも規定しています。

こうした基準も、対象地域によってはやむをえないと思えるところもあります。京都市条例第5条に定める「重要文化財又は重要有形民俗文化財に指定された建築物等」「トンネル,橋,植樹帯」などにかかわる「屋外広告物」の場合です。ですが、一般の公共スペース、あるいは大学とこれに隣接する地域については、だいぶ性格が異なるのではないでしょうか。

京都市役所で文化行政を担当している方が個人ブログで、京都大学の立て看問題にかかわって「思考実験として条例の解釈」を試みています。「京大の立て看板が、「景観」を構成するものかどうかは、行政の関心の埒外のこと」であり、「何が「価値ある景観」なのかは、政治的な議論を伴うべきより大きな問題である。(もちろん行政もその議論について責任の一端を持ち、見識を示すことは求められるのだが)」と書いています。その上で、学生が許可申請手続を逐一することは「事実上かなり難しいだろう」という判断を示した上で、京大の立て看については、「非営利」の活動として許可不要として解釈する余地や、「慣例的行事のために表示する屋外広告物」として許可不要とみなす解釈する余地があると指摘しています(http://d.hatena.ne.jp/tomoharu_hara/20171129/1511959337)。

何が「価値ある景観」なのかについて、行政の役割は「見識を示す」ことに止め、その判断は政治的な議論に委ねられるべきであると述べているわけです。当然といえば当然のことながら、重要な知見です。なにを「美しい」と感じ、なにを「醜い」と感じるかは個々人により異なる以上、「重要文化財又は重要有形民俗文化財に指定された建築物等」「トンネル,橋,植樹帯」などを別とすれば、京都市は「景観」をめぐる判断に立ち入るべきではないということになります。それにもかかわらず、一般的な公共のスペースまで含めて「景観」上の「悪影響」を云々する京都市条例はおかしいということにもなります。現行の条例を前提とするとしても、「景観」上の価値にかかわる判断については抑制的であるべきということになるでしょう。

論点③について。

京都大学による立て看規制は、京都市による是正要求への対応としておこなわれたと報道されています。京都市条例にかかわる以上の問題をふまえるならば、この時に京都大学としてとるべきだった対応は、学生サークルなどによる立て看が非営利活動のためである以上、許可は不要として立て看文化を守ることだったと考えられます。対応を迫られる部分があるとすれば、「破損,落下,倒壊等により公衆に危害を及ぼすおそれ」をなくすための留意を徹底することです。

京都大学の定めた立看板規程でも、京都市条例と同様に、「破損、落下、倒壊等による通行への妨げ及び人身への危険がない」ための措置であることを強調しています。もっとも、この点について、これまでにも台風が接近する直前には設置者に一時的に撤去するように大学側が連絡し、設置者の側でも撤去することがおこなわれてきました。念には念を期すとしても、多くの立て看の並ぶ道路脇石垣の上にワイヤーや繩で固定する柵のようなものをつくるなどの対応が考えられます。道路法との兼ね合いを含めて、「公衆に危害を及ぼすおそれ」という観点からの措置については、さまざまな対応がありうるはずです。

しかし、大学当局は、安全のための補強措置を具体的に提起するのではなく、設置場所を学外からは見えないような場所に限定する、公認サークルだけに設置者を限定することなどを定めました。教授会での審議すら求めない、トップダウンの意思決定でした。

設置場所を学外から見えない場所に限定することについては、「市民の苦情」があったという説明もなされていますが、そうした類いの「市民の声」だけを大学として対応すべき見解であるとみなす一方、「立て看をなくすのはやめてほしい」という類いの「市民の声」に対応しないのは正当なのでしょうか。

たとえば、立て看規制をめぐる4月30日の集会では、京大の近隣に住む女性が「10年ぐらい前は今とは比べものにならないぐらい立て看が多くて楽しかった。京大には税金が投入されており、大学だけでなく一般市民のものでもある。意見を聞いてほしい」と語っていました(https://mainichi.jp/articles/20180501/ddl/k26/100/251000c)。京都大学当局は、こうした声にどのように応えるのでしょうか。もしもこうした声を無視するとしたら、なぜこの声は無視し、立て看を批判する声にだけ対応するのでしょうか。

屋外広告物法、さらに京都市条例そのものが、基本的人権を不当に制約する可能性をはらんでいますが、「公衆」からは見えないところに設置せよという京大の規制は、法や条例の趣旨すら越えたものといえます。また、立て看規制が発動されることになった5月1日には、大学職員が、立て看のみならず、段ボールの掲示物や職員組合の掲示ボードを含めて「移動せよ、さもなければ撤去する」という趣旨の「通告書」を貼付しました。なぜ倒壊の恐れのない掲示ボードにまで撤去を求めるのか。大学当局は、「公衆に危害を及ぼすおそれ」を減らすことよりも、学内の管理を強化することそれ自体を目指しているのではないかと感じざるをえません。この立て看問題について、大学当局が一貫して学生との対話を拒み、一方的な「説明」に終始していることも、そのような疑念を強めます。だとすれば、京都大学の理念や目標とからめて、学内管理強化の必要性を正面から主張し、学生や教職員との議論に応ずべきではないでしょうか。京都市の条例にかこつけた強硬措置は、姑息のそしりを免れません。

大学当局は、情報はWebページやFacebook、Twitterなどで発信すればよいではないかという「説明」もしています。ですが、こうした手段が双方向的であるかのようでありながら一方向的であり、多様な情報・意見を獲得できるようでありながら実は「仲間内」に閉じこもりがちだというは、すでに多くの研究で指摘されていることです。もちろん、ネットの活用は大切だとしても、若者たちが肩を寄せ合いながらスマホの画面に見入っている世界のおかしさを多くの人が感じている中で、複数の者が協力しながら立て看を制作し、運搬し、設置するというワザを断ち切ってしまうことは、貴重な学びの機会を閉ざすことにもなります。さらに、これまで立て看が弱者のメディアであったこと、すなわち大学の意思決定に参与できない構造的弱者(学生など)が自らの見解を広く公衆にアピールするツールでもあったことを考えれば、「なにか意見があればメールで伝えよ」とする大学当局の対応は、あまりにも非人間的といえます。

行政が公共のスペースの、非営利的な掲示物の大きさや意匠にまで事細かに干渉し統制する社会は異常です。京都大学が「自由の学風」という(もともと誇大広告的ではあるけれど、それでも重要な)看板を自ら投げ捨て、異常な行政の下請け機関と化してしまうことにあらがいたいという思いを込めて、私たちは、「生命は、誰かの持ち駒ではない」というメッセージをあらためて発したいと思います。


参考: