安倍談話批判

安倍談話批判

 豊かな未来を語るには、厳しく過去を直視しなければならない。安倍晋三首相の「戦後70年談話」は、その姿勢に欠けており、歴史に対して謙虚であるとはとうてい言えるものではない。

 「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」といういわゆる四つのキーワードが戦後70年談話で言及されているか否かだけを安倍談話の評価基準にしてしまうと、この談話が含む問題性を見過ごすことになりかねない。これらのキーワードがいかなる文脈においていかなる意味を込めて使われているか、これこそが問題である。

 たとえば、村山談話ならびに小泉談話の「お詫び」を過去形で持ち出し、それを「引き継ぐ」としか述べていないのは、謝罪の意を伝えるうえできわめて不十分といわざるをえない。広く指摘されている通り、四つのキーワードの主語をおそらく意図的に曖昧にしている点は、この談話の重大な特徴である。

 主語の曖昧さはキーワード以外に関しても同様である。戦時中の女性の苦しみへの言及を例に挙げるなら、「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた」と述べるばかりで、誰が傷つけたかについては不明確なままである。「二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリード」しようというのであれば、傷つけた主体の一つが日本であったことを明言せずに済ますことは許されまい。

 さらに、安倍首相が引き継いでいるとする「お詫び」や「反省」と齟齬をきたしている歴史認識も少なくない。主な三点のみ、以下に挙げる。

 第一に、日露戦争について。安倍首相は、冒頭の箇所で、西洋列強の植民地主義をとりあげたうえで、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べている。「勇気づけた」側面があったとしても、それだけでは、日露戦争が朝鮮の権益をめぐって勃発した事実、さらに、日露戦争直前に中立を宣言した韓国を無視して日本が朝鮮半島を軍事支配下に置き、さらに戦争中に韓国の保護国化を閣議決定したという事実を見逃すことになる。いったんは日本により「勇気づけ」られたアジア諸民族の多くが、その後の朝鮮植民地化の過程を目撃して絶望したという事実を無視して、ただ「勇気づけた」とだけ記すのは、日露戦争の評価としては著しく一面的である。

 第二に、第一次世界大戦後の日本について。幣原外交や軍縮会議への参加、パリ不戦条約の批准などを踏まえてであろうが、安倍首相は、「人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。/当初は、日本も足並みを揃えました」と述べている。しかしこの発言には、日本が、台湾・朝鮮・中国などの民族自決の動きと敵対していたことに対する認識の欠如という問題がある。そして同じ問題は、「第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキをかけました」という首相の言葉にも見受けられる。だが、第一次世界大戦後、朝鮮における三・一独立運動や台湾における台湾議会設置運動など、台湾や朝鮮で民族自決を求める人々の思いを武力・警察力を用いて文字通り圧殺し、中国における五・四運動を敵視し、中国統一を阻み続けたのは、ほかならぬ日本ではなかったのか。これらの点を無視した今回の談話は、歴史的事実の一面的な認識に基づくものであり、戦時中の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」などのスローガンで、国外のみならず、国内の一般市民の目をも欺いた国家権力のやり方と相通ずるものがある。深い懸念を感ぜずにはいられない。

 第三に、戦後の歩みについて。まず、「平和国家としての歩み」の基礎であった9条と立憲主義を「解釈変更」という姑息な手段で破壊し、「積極的平和主義」なるアメリカへの軍事的追随政策を掲げる安倍首相に、それを「誇る」資格はない。また、日本の戦後史は「平和」と「繁栄」だけで語りうるわけでもない。

 だが、それにもまして真摯に問わなければならないのは、戦後、私たちが本当に戦争の内実と向き合い、旧植民地・旧占領地の人々と言葉を交わし、理解を深めてきたのか、という点である。朝鮮半島の戦争と南北分断をどれほど自己の問題としてもとらえてきたのか。朝鮮半島における内戦により何百万もの人びとの命が失われていたときに、日本の支配層はこれを「天佑」「特需」として歓迎したのではなかったか。「祖国復帰」したはずの台湾人が植民地時代の「皇民奉公会」との関係などを理由として国民党政府により惨殺されていたときに、いったいどれだけの日本人が抗議の声を挙げたのか。さらには、日本に居住し続けざるをえなかった在日アジア人たちの人権をどれほど尊重してきたのか。日米戦争の捨て石にされ、その史実もないがしろにされたまま、いまなお米軍基地が集中し、それゆえに土地の強制使用や騒音や米兵の陵辱事件に踏みにじられてきた沖縄の歴史をどれほど厳粛に受け止めてきたのか。戦争ばかりでなく、戦後を問い直す作業も私たちにはまだ膨大に残されている以上、安倍談話が意図するように、あるいは、非戦争体験者の増加だけを理由に、「戦後」を終わらせるわけにはいかない。

 戦後生まれの世代に属する日本国の国民は、直接的には戦争中の行為について責任を負っていないが、日本の国家と政府は、その歴史的な継承性を主張するのであれば、自国が過去に犯した過ちについて、今後も責任を負い続けるはずである。また、戦後生まれの世代も、被害者側からみて許容しうる歴史認識がいまだに公式な見解として日本の政府に定着していない以上、その責任を負っている。

 謝罪がなされるかどうかは、加害がなければ被害は生まれないという論理を前提として考えなければならない。今回の談話のように加害者側から一方的に謝罪は必要ないと主張することは、論理的にも道義的にも間違っている。

 私たちは、未来を語ることを拒もうとは思わない。むしろ、自由な言論の認められた空間で、未来の構想を大いに語りあいたいと願う。ただし、未来を語ることが、過去を直視できる人間にのみ許される行為であるという戒めを、やはり忘れてはならない。過去を直視しない未来への提言は単なるポーズ以上のものではありえず、不毛である。

自由と平和のための京大有志の会