第2回勉強会報告レポート

【会の概要】
8月6日(木)の13時から15時、京都大学人環・総人図書館分室 環‐onにて『歴史と今を考える会』第2回勉強会が行われました。テーマは「マッカーシズムについて」と題し、担当者が制作したレジュメをもとに学生間で討論を行いました。

テキスト:マッカーシズム
R・H・ロービア 著 宮地健次郎 訳 岩波書店
4003422015

【勉強会内容】
 1940年代後半から50年代前半にかけてアメリカ国内で発生した「赤狩り(共産主義者の迫害)」のことを、そのきっかけとなる演説を行ったマッカーシー上院議員の名前にちなんで「マッカーシズム」と呼ぶ。
 マッカーシー上院議員は上院では影の薄い、「とるに足らぬ人物」と目されていた。そんな彼が1950年2月にウィーリングにて行った演説は「国務省内に205人の共産党員およびスパイ網の一味と指名された人間がおり、ここでその名を挙げることはできないが、今その205人のことが記されている名簿を持っている」というものであった。この発言自体は、2年後の選挙戦の目玉となるような争点を必要としていたことから提供されたものにすぎなく、内容は稚拙で虚偽ばかりのものであった。(205人という人数も64人や73人と演説ごとに流動している)
 このようにマッカーシーの発言は明らかにおかしいものであったが、彼は世間の注目を集め、トルーマン大統領でさえもその影響を無視できなくなってしまった。その結果、「中国問題の専門家」であったラティモアを皮切りに多くの知識人・文化人が共産主義者として糾弾された。なかには実際にソ連のスパイや共産主義者もいたが、そのほとんどは無実の人々であった。
 この極端な「赤狩り」は次第に良識ある人々の反発を生み出し、1954年に上院の非難決議を受けた。そしてマッカーシーの死後、マッカーシズムは崩壊した。
 ここで、2つの疑問が生じる。

【Q1】 なぜマッカーシズムは多くの影響力を持ったのか?
多くの疑問点や矛盾がマッカーシーの演説に対しては挙げられた。以下に具体例を並べる。

  • 名簿を持っているなら、どうしてその名前を公表しないのか?
  • どこからその名簿を入手したのか?
  • なぜ地方の小さな集会でこのような衝撃的な発言をしたのか?
  • なぜ『国務省内の共産主義者』を糾弾していたにもかかわらず、中国研究の学者であるラティモアが攻撃の槍玉に挙げられたのか?

これほど疑問点や矛盾がありながら、時の大統領でさえその主張を無視できなかったのである。そこには、いくつかの背景があったと考えられる。以下にその仮説を挙げてゆく。

① 歴史的背景を考えると……

  • 1945年以降の国共内戦と1949年の中華人民共和国成立、1950年6月の朝鮮戦争勃発など共産主義の脅威・対立が深まっていた中で、国政の中心を握る国務省内に共産党員がいるという情報に国民が過剰に不安を掻き立てられたのではないか。
  • また、ソ連・中国を中心とした東側諸国の台頭とともに、第二次大戦により荒廃したヨーロッパ諸国の復興が進むことで、アメリカの絶対優位が揺らいでゆくことに対して恐怖感があったのではないか。

② 報道の面から考えると……

  • ウィーリングでの演説を受けて、同年2月20日にマッカーシーは上院でも演説を行ったが、それは「代議政治史上最も狂気じみたものに数えうる光景」であった。その内容は先の演説と同様「支離滅裂」であり「無秩序」といえるものであった。しかし、マッカーシーの演説を否定するに事足る決定的な証拠も存在しなかったため、マスコミ側もその演説について否定することもできず、「1人のアメリカ上院議員が長い、怒りの演説をして、同議員が国務省内にいるという81人の共産主義者に関する詳細なものを述べた」と、あくまで演説の内容を伝えざるを得なかったということも影響を広めた一因となったのではないか。

③ 説明責任の面から考えると……

  • 次の問でも述べるが、一度ラティモアを弾劾してしまった以上、冤罪の責任を負わされる恐怖から後に引けなくなった民主党員がマッカーシズムを推し進めたのではないか。

④ 支持母体の面から考えると……

  • ①、②で示した背景を踏まえると、アメリカの共産主義国化という不安が残っている以上、その不安を払拭し自己保身を図りたい上流階級や政権の支持母体が圧力をかけてきたのではないか。

⇨ これらの仮説ははたして正当か?

  • 当時のアメリカの政党内の党議拘束力
  • マッカーシズムに対する民主党の支持母体・ロビイストの反応
  • 国務省の所属でないラティモアが最初に弾劾された理由

この三点を中心に調査し、次回勉強会でその正当性を確かめることとする。

【Q2】なぜ1954年に上院において非難決議に至ったのか?

  • マッカーシズムが蔓延したのは、トルーマン政権期(民主党政権)であり、マッカーシーも民主党員である。→ ラティモアを弾劾した後、その責任問題が政権に飛び火することを民主党員が恐れたとしたら、マッカーシズムが間違っているという認識があったとしても、それを黙殺するのは然るべきことだろう。

⇨ しかし、1953年に共和党のアイゼンハワーが大統領に就任すると責任追求が可能となり、マッカーシズムを民主党政権時代の非を追及する好機とみて非難決議を行ったのでは、と考えられる。


☝アシストをしていないアシスタントよりひと言

「考える会」の第2回勉強会は、教員の参加なしで、テーマの設定、文献の選定、当日の議論の組み立て、すべてにわたって学生諸君が自主的に企画して実行しました。

ですから、今回は、教員側にはコメントをするような資格も権利もほんとうはないのですが、いまなぜマッカーシズムか、という点についてだけ、補足しておきます。

第2次安倍政権が成立してから、「反知性主義」という概念を耳にしたり、このことばをタイトルに掲げた本を目にする機会が多くなっています。

批判的な精神のあり方や学術研究の成果を軽視したり平然と無視したりする発言が、政治家の口からしばしば発せられるようになったためです。

安倍政権が推し進めようとしている国立大学の人文・社会系再編の政策も、このような政治家の姿勢と軌を一にするものです。

このような政治の問題点はどこにあるのか、また、こうした現象はなぜ起こるのかを考えるにあたって、1950年代のアメリカ合衆国におけるマッカーシズムは歴史的に重要な先行事例です。

もちろん1950年代のアメリカと現在の日本では、歴史的な背景も精神的な風土も異なりますので、単純な比較はできませんが、かつてのマッカーシー上院議員がそうであったように、根拠のない政治家の発言が強い影響力をもち、それに同調しない者を抑圧したり排除したりする力として働くことは、昨今わたしたちが実感していることでもあります。

「反知性主義」について議論しようとすると、マッカーシズムから遡ってアメリカの思想的・文化的系譜を歴史学的に考察したリチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』原著は1963年刊日本語訳は、田村哲夫訳、みすず書房、2003年)は、依然として古典的文献です。

アメリカの反知性主義
リチャード・ホーフスタッター 田村 哲夫
4622070669
Anti-Intellectualism in American Life
Richard Hofstadter
0394703170

次回の勉強会では、このホーフスタッターの著書も参照しながら、マッカーシズムについて継続して検討する予定です。はたしてどのような議論が展開されるか、ご期待ください。

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