スピーチ原稿集 » 自民党改憲草案を読む-いかなる「立憲主義」なのか?

【目次】

7.基本的人権とその制限の根拠をめぐって

次に、「第三章 国民の権利及び義務」を見ていきましょう。

現行憲法

第三章 国民の権利及び義務
第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

自民党改憲草案

第三章 国民の権利及び義務
第11条(基本的人権の享有)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

自民党の改憲案では、第11条で現在の日本国憲法と同じく「国民は、全て基本的人権を享有する。」となっていて、「侵すことのできない永久の権利である」となっていますが、現憲法のように「現在および将来に国民」に与えられるという規定とは異なっています。
次の12条は、自民党改憲案のタイトルは「国民の責務」になっています。つまり権利を保障するという方向よりは、いかに責務を負うべきか、に重点がシフトしています。ここが自民党改憲案がめざす重要な勘所ということなのでしょう。これに関連して、櫻井よしこさんなど改憲派の人たちが必ず日本国憲法を指弾してあげられることがあります。それは「日本国憲法には義務が少なすぎる。納税と労働と子弟に教育させる義務しかない」というものです。「3つしか義務がない、だから自由勝手な利己主義者だらけの国家になったのだ。」という非難です。おそらく小学校以来、三大義務と教えられてきた記憶が大きく影響しているのかもしれません。しかし、国民に要請されているのは、ほんとうにその三つの義務だけなのでしょうか?

現行憲法

第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

自民党改憲草案

第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

先ほど言いましたように憲法は体系として見なければなりません。ここで重要なことは、11条12条がセットになっているということです。

そして、12条をご覧になると分かりますけども、「国民は、これを濫用してはいけないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっているはずです。国民が保障されている権利を行使するにあたっては、「常に公共の福祉のために利用する」責任を負いなさいというわけですから、ここに義務がかかっていることになります。ですから、義務は3つしかないのではなくて、第三章における権利行使そのもの全てに、この責務はかけられていることになります。つまり、権利と義務の規定は、国民が「侵すことのできない永久の権利である」ことを権力者に認めさせ、それを保障すべく権力を行使することを要請しているとともに、国民自身にも保障された権利を自らのものとして行使するためには責務を負っているということを明示しているわけです。

他方、自民党の改憲案では、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」することが強調されており、「公共の福祉」が曖昧だとして、「公益及び公の秩序に反してはならない」と規制要件が改められています。問題は、それでは「公益及び公の秩序」が「公共の福祉」よりも明白な規制原理になるのか、ということです。日本の近現代史を学んできて痛感するのは、日本社会では「公」なるものが、そもそも「おおやけ=大宅」として朝廷を指し、幕府が「公儀」と称されたように、公=権力者=官と同視されてきており、現在でも「公益」や「公の秩序」とは何かを決めるのは、国民ではなくて権力者であるという通念に支配されているということです。実際、この改憲案が施行されれば、「公益」や「公の秩序」に反するか否かを、第一義的に決定するのは行政権力ということになるはずです。

次に自民党の改憲案で、問題視されているのは、13条の「すべて国民は、人として尊重される。」というものです。これは現行憲法における「すべて国民は、個人として尊重される。」とは、たった一字の違いですが、その意味するところは全く違ってきます。人一般として権利を持つのではありません。この条文で重要なのは、「個人としての尊重」が、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」と密接に結びついているという認識に立っているからなのです。現行の憲法13条における人権は、「幸福追求権」と呼ばれていますが、それは個人によって幸福の意味が異なることを前提としていることを意味しています。誰か権力者が「人」としての幸福とはこれだと外在的に規定しないし、できないからこそ「個人」として尊重される必要があるのです。しかも、現行憲法の「最大の尊重を必要とする。」が、改憲案では「国民の権利については、最大限に尊重されなければならない。」と改められています。ここも「最大」と「最大限」との一字違いなのですが、憲法では文理の解釈で大きく異なりかねません。「最大限に尊重される」というのは「最大限にやりました」と言えば良く、自由に限度を設定することも可能です。他方で、「最大の尊重」というのは、本当に最大に尊重したことを論証する必要があります。もちろん、「最大」の範囲も変動するでしょうが、なぜ、こうした改正がおこなわれたかについても留意しておきたいとおもいます。

現行憲法

第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自民党改憲草案

第13条(人としての尊重等)
 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

改憲案の第三章については、まだまだ論ずべき箇所は多いのですが、そもそも「国民の権利」が自民党改憲案を起草した委員の中で、どのように捉えられているのかを押さえておく必要があります。起草委員会の幹事をされた参議院議員は、「そもそも国民に主権があることがおかしい」と、2012年7月27日放送の「朝まで生テレビ!」で発言されたようです。また、今では桝添要一さんの元奥さんとして著名な片山さつき参議院議員は、「国民は天から権利が付与される、義務は果たさなくて良いというような天賦人権をとるのは止めようというのが私たちの基本的考えです」といった発言を繰りかえされています。また、自民党改憲案のQ&Aの中にも「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」と明記されています。

このように天賦人権論は、日本の伝統に反する、あるいは虚妄の仮説に過ぎないといった議論は、明治10年代に展開された天賦人権論争において初代の東京大学総長となった加藤弘之らが展開したものでした。しかし、この問題は、おそらく多くの方が憲法や歴史の授業などで学ばれたかと思いますが、大日本帝国憲法を審議した枢密院の会議で森有礼と伊藤博文との間で議論されたものです。森有礼はアメリカに留学し、帰国後に明六社などを設立し、文部大臣になった人ですが、森は大日本帝国憲法に「臣民の権利義務」を書くことに反対します。それに対して、伊藤博文はこう答えました。ここですね。

「森氏の説は、憲法学および国家学に退去を命じたるの説と言うべし。そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。故にもし憲法において臣民の権理を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし。」と反論します。さきほど、指摘しましたように立憲主義は、人権保障と権力制限とを明記しなければ憲法とは言えないという理解を示したわけです。それに対して森有礼は「なぜわざわざ憲法に国民の権利を改めて書く必要があるのか?」と反論します。森によれば、「臣民の財産および言論の自由等は人民の天然所持するところのものにして、法律の範囲内においてこれを保護し、またこれを制限するところのものたり。故に憲法においてこれらの権理始めて生じたるものの如く唱うることは不可なるごとし。」というのです。すなわち、憲法で人権条項を書いたから人権ができたわけではなく、書くことによって初めてできたように理解するのは間違っているというのです。大日本帝国憲法における人権は、結局「法律の範囲内」でしか認められませんでしたから、私たちは「表見的立憲主義」であったと習いましたが、立憲主義ついて明治の政治家ほどにも理解をしていない議員によって改憲案が書かれているのは、歴史に鑑みて物悲しさを感じざるをえません。戦後という時代は、あまりにも憲法というものに対して疎かに接しすぎたのではないかと臍をかむ思いを禁じ得ません。